どうも村田です

おさらいをすると、
樋口季一郎さんは
簡単に言うと
開明的なインテリ軍人
だったのではないかと、
陸軍きってのロシア
を脅威とする行動派と
目される
対ロインテリジェンス
オフィサーだったのだ。
それからロシア部署、
ポーランドに駐在武官
として赴任して、
欧米列強の情報や
文化に通じて、
成熟した人間的感性を
立脚して
大局を見据えた
開明的なインテリ軍人
だったのだ。
そして、陸軍参謀本部
第2部長で生涯ロシアを
担当して、
現代でいうとアメリカ
のCIAやイギリスのMI6
の長官に当たる
情報部長を務めた
インテリジェンスの
総元締めなのだ。
ところが最後は北海道、
南樺太と千島列島の
北の守りを担当する
札幌第5方面軍司令官
としてロシアから
北海道を守ったと、
こういうことが言える
と思うのだ
そういう樋口に
立ちはだかった試練
というか、問題が
あったのだ。
それは何かというと、
あのソ連が中立条約を
破って侵攻してきた
ということなのだ。
それだけではなく、
終えた戦争にも
かかわらず、
日本が終えた終戦の
詔書の後に占守島、
あるいは南樺太に侵攻
してきたわけなのだ。
その時にどういうことを
やったのかというような、
どんな障害があったのか
ということをまとめて
整理してみたのだ。
8月9日、1945年8月9日、
いよいよソ連が
日ソ中立条約を
一方的に破って満州に
侵攻してきたのだ。
そして南樺太でも
11日から攻撃が始まる。
それは巷間言われている
通り、同年2月にヤルタで
3巨頭が対日参戦の見返り
として南樺太の返還と
千島列島の引き渡しの
密約を交わしていたから
なのだが、それだけでは
ないのだ。
8月14日のポツダム宣言
を受諾して、15日に
終戦の詔勅が出された後、
大本営はポツダム宣言を
受諾した以上やむをえない
自衛行動を除いて
戦闘を停止せよと、
18日午後4時までに
それを徹底せよ
というような命令を
出していたのだ。
もちろん樋口はこれを
守って、樋口自身が
「軽挙妄動をつつしんで
規律を乱さないように」
と言って訓示をしている
のだ。
そうしたところ、
終戦の詔書がでるのだ
このように日本軍として、
あるいは日本国民として
は戦争を終えた
というような段階で、
これが戦いを止めずに
占守島にソ連軍が
やってきたわけなのだ。
実際は率直に言って、
武装解除を始めていた
日本軍を攻撃してくる
わけなのだ。
大本営の命令に
そのまま従えば、無法な
ソ連軍の無血占領を
許してしまうのだ。
戦わなければこれは
占領されてしまう
わけなのだ。
無傷で占領されれば、
千島列島を南下して、
北海道本土も占拠する
ことは明らかだった
わけなのだ。
正式に戦闘状態が終結
したのは9月2日、
降伏調印して、ここで
国際法上に終戦確定
しているのだ。
ということは、詔書が
読み上げた8月15日から
2日まで、
空白の18日間に渡って、
ソ連は火事場泥棒の
ように侵攻してきた
わけなのだ。
その最初の防衛戦が
占守島の戦いだった
わけなのだ。
その最初に戦わなければ、
これはもう無傷で占領
されてしまった
というような状況だった
のだ。
そこでこの占守島を
どうしたかというと、
当時北海道の戦略的な
重要性というのは、
日本軍あるいは
日本政府にとって今より
重要視されていなかった
のかもしれない。
だから占守島から北海道
にかけて、北海道が
ソ連に占領されれば、
今から考えると戦後の
世界秩序が全く違った
ものになったという
ように思うのだ。
それはなぜかというと、
北海道は土地や資源が
豊富なのだ。
ここが日本領でなければ、
日本の戦後の経済復興も
実現しなかったかも
しれないのだ。
逆に言うと、ソ連は
そこに目をつけていた
のかもしれないのだ。
日本どころかアジアの
発展もなかったのかも
しれないのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

