どうも村田です

近藤勇(いさみ)は
京都に送られることに
なって、
そこで裁判しよう
ということになるのだが、
捕まえたのは上田楠次
という土佐藩の人間で、
そこに土佐藩の
上田楠次の上司に
当たる土佐の大軍官の
谷干城
(たてき/かんじょう)が
「直ちに斬首する」
と命令をするわけなのだ。
捕まえてきたのは
有馬藤太純雄だが、
彼は
「いやいや、それはいかん、
何の罪状があるか分からない
けれども、とにかく裁判に
すべきである。
まずは裁判に付して、
その上で大久保大和こと
近藤勇(いさみ)の言い分
も聞いて、
そのうえで処断すべきで、
直ちに斬首などとんでもない」
と言って、有馬は大反対
するのだ
要するに、有馬藤太から
すると、流山で捕まえた
近藤と越谷まで一緒に行き、
その後板橋まで一緒に
来ているが、その間に
ある程度のいろいろ会話
もあるし、
友情関係が生まれて
いるのだ。
この人間はただ者では
ないということを有馬は
悟っているわけなのだ。
だから、
「そんなことしちゃいかん」
と、しかも薩摩藩はつい
数年前までは幕府方で
もって
禁門の変を一緒に
戦っている仲だから、
そんなことをしては
いけないと有馬は言ったのだ。
ところが、その前に
坂本龍馬の暗殺事件が
あったのだ
坂本龍馬を暗殺したのは
新選組だといううわさが、
実際は違うのだ。
実際は市中見廻組なのだが、
新撰組だといううわさが
ずっと流れていて、
それがかなり信じられて
いて、上田楠次とか、
この谷干城
(たてき/かんじょう)は
土佐藩出身だから、
しかも坂本龍馬が殺された
ときに最初に駆けつけた
のは谷干城(たてき)
なのだ。
その時に、まだ
中岡慎太郎は息が
あったのだ。
だからこれは新選組の
しわざだと彼は信じ
込んでいたから、
直ちに斬首と言って
厳しくそれを言い立てて、
結局斬首をすることに
なったのだが、それも
有馬藤太が仕事で宇都宮
に出張していた時なのだ。
その間に斬首する
ということが勝手に
決められたということで、
有馬藤太としては後から
自分は裏切られたというか、
だまされたというか、
自分の言い分が聞かれ
なかったということで
くやしかったと思うのだ。
有馬藤太については
後で言うと、昔
承平天慶の乱というのが
あったと思うが、
そのときに藤原純友
というのが日振島、
瀬戸内海で海賊になるのだ。
関東では平将門
平安時代前期の話だが、
その時の藤原純友の子孫
が大村氏と有馬氏になって
大名になるのだ。
その大名と大友宗麟の
3人が出したのが天正の
少年使節で、
戦国時代にローマまで
ローマ法王に会いに
行くのだが、
その時に有馬晴信と
大村純忠、その
有馬晴信の一族の
子孫が鹿児島に行って、
この有馬藤太の祖先に
なるのだ。
本家の方の有馬家は
越前の丸岡、今の
福井県丸岡の5万石の
大名になるのだ。
その子孫もきちんと
今もいるのだ。
で、有馬家はそういう
家柄なのだが、斬首する
ことに決まったのだ。
それで4月の25日に、
板橋において斬首
されるのだ。
この時に、宮川家の出身
なのだが、彼の甥の
宮川勇五郎というのが
斬首されるところを
横から見ているのだ。
当時、斬首するときは
髪を、元結はそのまま
だがまげを、
彼は総髪まげだから、
境の部分を剃っていない
総髪まげなのだ。
総髪のちょんまげを
乗っけているが、これを
元結をそのままにして、
まげを下におろすのだ。
切腹するときは下に
おろすのだ。
浅野内匠頭(たくみのかみ)
もそうだが、それで腹を
切るのだ。
しかし彼の場合には
切腹を許されなかった
から斬首なのだが、
そうすると、首を切るときに
このまげが後の首にかかって
邪魔になるのだ。
これを自分で持ち上げた
という話があるのだ。
これもうそか本当か
分からないのだ。
持ち上げて「どうぞ」
と言って切らせたという
話もあるのだ。
それは1つ、近藤勇(いさみ)
の豪胆さを表す逸話として
語り継がれているのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

