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駆け抜けたんじゃ

どうも村田です

首は切り落とされて、

その首は3日間板橋に

さらされて、

そしてその後塩漬けに

されて京都に運ばれて、

京都の三条河原でも

さらされたそうなのだ。

胴体はその場で

打ち捨てたのだ。

昔はよくあることなのだ。

ずっと見ていた甥の

宮川勇五郎、兄貴の息子

だが、これが誰もいなく

なった後、

仲間何人かで行って、

胴体を担いで調布まで

持ってきて、

調布の自分の家まで持って

きて、そしてお墓に埋めた

そうなのだ。

それが今の龍源寺で

今、調布市の野水にあるが、

三鷹の天文台の南側、

国際基督教大学の南側の

野川上水のところの横にある

龍源寺というお寺のお墓が

それが葬られているお墓に

なっているのだ。

首の方はその後

どうなったか分からないのだ。

で、宮川勇五郎が近藤勇

(いさみ)のお嬢さん、

一人娘のたまという娘がいるが、

これと結婚して近藤家の

養子になったのだ。

そして有馬藤太は、その後は

東京府の参事などをやり、

明治6年政変では西郷隆盛に

従って鹿児島に移り、そして

鹿児島で西郷と大久保が

決定的に仲が悪くなるのだ。

この間を取り持とうとして

奔走したけれど、残念ながら

それができなく、

結局政府軍にとらわれて

幽閉されて、その後不遇な

人生を送ったのだ。

不遇な人生を送ったが、

大正13年まで生きて、88歳で

亡くなったのだ。

近藤の斬首を主張した

谷干城(たてき/かんじょう)

は陸軍に入り、

西南戦争では熊本鎮台司令官

として西郷軍と戦って陸軍中将、

農商務大臣、学習院院長などを

歴任して、明治44年に75歳で

没したのだ。

子爵になり、この間、

土方歳三は何をしていたか

というと、土方歳三は

江戸に潜伏して、

近藤助命に行ったのだが、

その希望は取られなくて、

武器弾薬を調達して、

4月に下総の国府台、そこで

大鳥圭介を総督とする

旧幕府軍に合流して参謀

となって転戦して、

下館藩、下妻藩を降服させ、

宇都宮に向かって進撃して、

この時の新撰組のかつての

同志はわずか6人なのだ。

その後は部隊指揮官として

能力を開花させて、最終的

には会津藩でもって1個部隊

を指揮して大変な戦いをやり、

さらに最後は五稜郭にまで

行って、五稜郭で壮烈な、

明治2年だが、討死をする

のだ。

近藤勇(いさみ)の奥さん

で、つねさん、清水家の

家臣の娘だが、彼女は

貞節を全うして生きたのだ。

その後、再婚を勧められる

ことにあったらしいのだが、

二夫にまみえるぐらいなら、

といって、短刀を抜いて

首に当てたというぐらいで、

結局再婚することなく

自分の養父であった

近藤周助を看取って、

一人娘のたまにも、勇五郎

養子に迎えて、明治25年に

病没したのだ。

一人娘のたまは、勇五郎を

むこに迎えて近藤家を

継いだのだ。

そして明治16年に久太郎

という息子を産み

近藤勇(いさみ)そのものが

宮川久次郎の息子だから、

言ってみれば久次郎のひ孫に

当たるわけだが、

この久太郎が生まれて、

その3年後、まだ久太郎が3歳

の時に病気でたまは亡くなって

しまうのだ。

養子に行った勇五郎、

近藤家を継いだ勇五郎は

天然理心流の、近藤勇

(いさみ)の4代目の

5代目を継ぎ昭和8年まで

生きたのだ。

近藤勇(いさみ)の孫に

当たる久太郎だが、彼は

明治38年に日露戦争に兵隊

として出征して、

満州において戦病死をした

ので、近藤勇(いさみ)の

子孫は1人もいなくなって

しまったと言われてるのだ。

ただし、京都時代に

近藤勇(いさみ)は

大坂新橋で深雪太夫

という女性を、

花魁だが身請けして1年

ばかり一緒に暮らしていた

ことがあったのだ。

それと同じく御幸太夫

という、お孝(こう)さん

というのだが、

この人も身請けして、

お孝(こう)さんとの

間にお勇という娘が

生まれたという話があるのだ。

これは確かな話では

なく、お勇の「勇」が

近藤勇(いさみ)の勇なのだ。

できすぎではないか

という話もあるのだが、

このお勇が後に京都に出て

花魁になり、

そして明治の賢官になった

伊藤博文とか井上馨(かおる)

らにかわいがられたという

話があるのだ。

それも少しできすぎでは

ないかなと思うが、しかし、

近藤勇(いさみ)によく似た

お勇と称する写真も実は

あるのだ。

だが、これが本当に近藤勇

(いさみ)の娘なのか

どうかということは確信が

ないのだ。

ただ、近藤勇(いさみ)

の娘だよと言って売り

出したということは、

どうも本当らしいのだ。

そしてその後の消息が

分からないので、本物か

どうか分からないと

いうことなのだ。

で、その天保5年に

東京の江戸の郊外である

今の調布で生まれた

近藤勇(いさみ)、

一介のただの農民の

三男坊に過ぎないが、

幕末を非常に駆け抜けた

人生であったということ

が言えると思うのだ。

次回はGHQに焚書に

された本について

書くのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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