どうも村田です

ところが
「こういう曲線が
あって、これ微分
可能性が全部の線に
おいて、
領域において確保
されていて、それで
微分をすると、
このデルタTと
いうのをデルタXと
いうのが無限に個分母
の方ね、
無限にこう0にした時
にできる角度というか、
この接線があるじゃない
ですか。
この接線……」
「何言ってるか
分かんねえよおまえ。
もういいよ」
となるやつでも、
「ここにおはじきが
3つあって、そこから
2つ取るでしょう。
そうしたら1個残る
じゃないですか」
「おお、分かる、
分かる分かる」
ということなのだ。
分かりやすいという
ことは、分かっている
ことの説明しか分から
ないのだ。
分かりやすいというのは
分かっていることなのだ。
そして、ジャーナリスト
とは本当は人々が知らない
ことを教えるのが仕事なの
ではないですか?
しかしそれだとみんな
読まないのだ。
だから
『表現者クライテリオン』
だって、
買う人がほとんど
いないわけなのだ。
知らないことばかり
書いてあるからなのだ。
「いや、
『クライテリオン』
難しいんだよな」
「難しいことあるか。
おまえの知らないこと
書いてあるから難しく
見えるんじゃ」
と思うのだ。
西部邁(すすむ)の文章も
「いや、難しいんですよね。
西部先生のは」
「何も難しくないわ。
知らないこと書いて
あるだけの話じゃないか」
と思うのだ。
私たちは知らないこと
を文章から読み取る能力
を高めているので、
そういうことばかりなのだ。
学者が論文読むとかでも
全部そうなのだ。
私たちは知らない
ことを読むのだ。
だから西部邁(すすむ)の
文章は何も難しくないのだ。
「ああ、そうか」
というだけの話なのだ。
しかし、新聞社というのは
ビジネスマンだから、
新聞記者もビジネスマン
だから、
分かりやすさ至上主義
になっているということ
なのだ。
あとは感情論への偏重、
感情論も分かりやすい
のだ。
やはりかぎかっこが
ないと原稿にならない
という習慣がすごくある
のだ。
要するにかぎかっことは
何かというと、せりふ
なのだ。
「ダムの必要性を解説する
連載記事を書いたときには、
『こいつのXダムに関する
原稿は使えない』
と言われて、
地元のおばあちゃんたち
が泣いて連載を急きょ
作り直して、
全部差し替えに
なっちゃったんですよね」
ということなのだ。
ダムがどういうふうに
利水、治水、発電量、
貯水量、
「それじゃ誰も読まねえ
んだよな。何かばあちゃん
が泣いているネタとか
ないのかよ」
と上から言われるわけ
なのだ。
地元のおばあちゃんが
泣いている原稿であれば
分かりやすいのだ。
だから分かりやすいは
分かっていることを
書かせるということか、
あるいは、ですから誰も
が知っている物語、
「おばあちゃんかわいそう
だねえ。悪いやつがいて、
おばあちゃん泣いてる。
じゃあ悪いやつをたたこうよ」
という、
何か仮面ライダー
みたいな話なら分かると、
こうなっていくわけなのだ。
「根拠を数字で理解する
人が少ないというのは
多分新聞社側の人材でも
すごくそうで、
おそらく読者もそう
だろうという、それは
読者をもしかしたら
バカにしているのかも
しれないけれど、
そういう思い込みも
確かにある気がしますね」。
「誰も数字なんて
分かんねえだろう」
と思ってしまっているのだ。
記者E
「例えば道路なんかは
必要だという話は、最終的
に感情論に落とし込んだ
話ってイメージしづらい
んですよね。
トンネルを通すだと、
その山を毎日ハイキング
しているおっちゃん1人
いれば原稿できるんです。
冷静に考えると、その
おっちゃん1人の
ハイキングのために
嫌だという話になって
いるんだけど」
だからこれはトンネルを
通すということの技術的
な話というのは何か
ややこしいけれども、
毎日その山をハイキング
しているおじさんが1人
いたらそれで記事になる
けれども、
その山にトンネルを通す
なんていうのは記事に
ならないのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

