どうも村田です
幕府は『オランダ風説書』
のみをひたすら頼りに
したのだ
そもそも江戸時代の
日本人は自国をとりまく海、
とりわけ太平洋がどういう
存在であるかを
ほとんど認識できて
いなかったのではないか
という疑念を持つのだ
何だか分かっていなかった
ということなのだ
これは1600年代の鎖国の
始まる前の話なのだ
鎖国の始まる前でも
何も分かっていなかった
のではないかと思うのだ
世界の海をこうやって
ヨーロッパが支配している
のに、日本は何も分から
なかったのだ
あるいは、分からない
おかげで分からなくても
済む、それでも安全だ
という偶然の条件の中に
いたということなのだ
そんなふうに理解して
いるのだが、なかなか
それが難しくて、
詳しく論証するのは大変
容易ではないテーマだと
思っているのだ
今、私にとって面白い、
「その辺が面白いだろう」
ということを書いている
なのだ
それで、西川如見を
出したのはその論証の
1つなのだ
『日本水土考』という、
要するに
「太平洋は分からない」と。
「われわれが分かっている
のは西の方で、東の太平洋は
分からないのだから西の方に
どんどん行けば、どうせ
アメリカというところに
ぶつかるから、それからでも
遅くないのではないか」
というのんきな、しかし
同時にほかに手のない
日本人の日本人らしい
考えなのだ
ただ、こういうものを
見ていると、日本が
「ダメだな」というのを
しみじみ思うのだ
新井白石は頭が良いけれど、
幕府はそうではないのだ
幕府が「やらない」
「外へは出ていかない」
「その方が得だから」
とそういう判断をしたのは
ムガル帝国の王様と
似ているのではないかと
思うのだ
さて、太平洋が日本人に
とっても西洋人にとっても
長い期間いかに暗い、
深いぼうぼうとした
未開の海であったかが、
ここで思い知らされる
のであるのだ
というのは、西洋でも
その頃までは南と北に
大きな2つの海が別々に
存在するなどと考え
られていたからなのだ
けれども探検が続く
太平洋は1つの海だと
世界に知らせたのは
1760年から1790年の間に
三度(みたび)行われた
ジェームズ・クックの
探検航海の成果で
あるのだ
ここで
ジェームズ・クックが
出てくるのだ
ジェームズ・クックは
これより前なのだ
これは16世紀で
マゼランは1500年代なのだ
そこから200年後だから、
1760年から1790年の
ジェームズ・クック
というのは、
もう随分後だということが
分かると思うのだ
覚えておくのだ
ジェームズ・クックは、
要するに18世紀の後半
1804年に長崎にやってきた
ロシアのレザノフが、
太平洋は1つの巨大な
大洋だと教えたのだ。
2つの海だというのは
うそだというようなこと
なのだ
こっちから行ってもどうも
大きいし、こっちから
行ってもよく分からないし、
あまりにも広いから
2つの海だと思った
のだろう
つまりすごく大ざっぱに
言えば、18世紀まで
日本人は最上部の指導層に
おいてすら、
自国の西側については
多少の知識は持っていたが、
東についてはまるで
分かっておらず、
現代人が太陽系惑星圏の
外を見ているのと同じ
ような、無限定なもの
へのめまいにも似た感覚が
あったのではないだろうか。
これについては大体
分かるのだ
つまりそういうふうな
分からない世界だったのだ
ついでに言えば、
ジェームズ・クックは
ロシアと結んでひそかに
日本の軍事侵略を企てて
いたが、
徳川幕府の知るところ
ではなかったのだ
これは、クック自身が
やったのではなくて、
パリだったと思うが
ロシアの大使とイギリスの
大使、つまり
ジェームズ・クックが
会見して、
道案内はクックがする
ということでコサック隊を
動かして、
そして日本を侵略しようと
したのだ。
クックが長生きをしていたら、
そういうことが起こっていた
と思うのだ
けれど彼は1790年に憤死
してしまうが、コサックが
ロシアの沿海州辺りに集結
するのだ
そういう歴史が残っている
のだ
だけど、全然幕府が知る
ところではなくて、
その当時、気をもんで
大騒ぎしていたのは
日本のいろんな人が
いるけれど、中でも
海国兵談の林子平なのだ
そして、西に比べて東の
太平洋の方は広すぎたのだ
先ほども説明したように
いかに広いか、もう1回
見ていただいても良いの
だが、
あまりにも広くて
知識不足であった
ということなのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる