どうも村田です

「会合衆は、 信長は大嫌い
だった。秀吉は大好きだった」
ということを聞いたのだ。
「信長は、自分の言った値段で、
強引に鉄砲も買い付ける。量も
『ダメですよ』と言っても、
半分巻き上げるように
黒色火薬を持っていく」、
そんな乱暴な取引をやった
ようなのだ。
それに対して、会合衆たちは
反感を持っていたのだ。
しかし、信長の軍勢は、一応
怖いものだから、それ以上の
反抗はできないのだ。
それに対して、秀吉というのは
やはりうまかったみたいなのだ
だから、堺の商人たちも秀吉は
大好きだったのだ。
しかし、この段階の時には
家康が入り、信長ではない
武将が入ってきて、 大歓迎
だったのだ。
そして、会合衆は家康を最初から
接待しているのだ。
だから、家康はここでもお茶を
飲まなければいけなかった
ということになるのだ。
そして、肝心な鉄砲鍛冶の
所に行けなかったのだ。
堺で家康一行が泊まったと
されている妙国寺というお寺で
これは 日蓮宗のお寺なのだが、
信長そのものは日蓮宗に寄与
していたのだ。
本能寺も日蓮宗で、実は、
「何でそんなに日蓮宗だったのか」
という理由だが、
もともと本能寺の大きな壇家の
1人に、鉄砲が伝わった種子島の
大地主がいたのだ。
信長は彼と話をつけながら、
鉄砲を優先的に手に入れる
という活動もしていたのでは
ないかとも考えられているのだ。
その辺から、彼にそういう
深い信仰心があったかどうかは
分からないが、この日蓮宗の
寺院を保護していたのだ。
家康が泊まったのも妙国寺、
それから本能寺の変の時に
長男の信忠が泊まったのも、
最初は妙覚寺といって、
これも日蓮宗のお寺なのだ。
「妙」が付き
南無妙法蓮華経の
「妙」なのだ。
本能寺よりも2街区ぐらい北に
あったお寺なのだが、そこに
泊まっているのだ。
家康も堺で妙国寺に泊まっていて
「ここで泊まって、何でもう
ちょっとゆっくりできなかった
のか」
という理由が分からないところ
が実は謎なのだ。
今度は明智光秀の謎について
少し迫ってみるのだ。
彼が事件を起こしたのは事実
だから、
「何で殺したのか」
という動機を見ていきたいと
思うのだ。
明智光秀像は、岸和田市の
本徳寺というお寺にある
肖像画が、有名なのだ。
実はこの裏書に、
「この絵を描いたのがどうも
光秀本人が描かせたらしい」
ということが書いてあるそうだが、
見ていないので分からないが
それが描かれたのが慶長年間
であり、本能寺のずっと後なのだ。
だから、ここら辺りから
「光秀は生き延びたんじゃ
ないのか」という説が生まれて
いる根拠になっているのだ。
これを根拠にしている学者の
先生もいるのだ。
いずれにしろ、明智光秀打が、
もともとこの人は大永6年、
1526年生まれであり
この年から換算していくと、
どうも天海と同じだろう
ということなのだ。
天海は亡くなっ た年齢が
108歳か何かではっきりして
いるから、
逆算していっても合わない
のではないかと思うのだ。
これは歴史のロマンで
土岐氏一族の明智氏の出自で、
土岐氏というのは足利将軍家
から通ったら親類筋になるのだ。
だから、もともと身分が非常に
高い一族の氏族、それが明智氏
だったというところで、
彼自身の筋はいいのだが、
明智が途中で全然力が
なくなってしまうものだから、
流浪をするような羽目になる
というところで、
「貧乏浪人」
という描かれ方もするのだ。
しかし、もともとは身分が
高かったお家の出なのだ。
斎藤道三、朝倉義景、それから
将軍足利義昭と仕えて、
織田信長に重用されるが、
最後は義昭と信長の2人一緒に
仕えているのだ。
それから、近江坂本城主を経て、
丹波一国を平定し
丹波の国というのは、難しい国
というか、
それぞれの地域地域に力を持った、
いわゆる豪族たちというのが結構
いて、
「なかなか一筋縄ではいかない
連中が多かった」と言われている
のだ。
だから、そこを何とか苦労して
一国を平定した、大変苦労したのだ
ということが分かるのだが、
一国を平定して、亀山城主を
兼任するのだ。
坂本城は、琵琶湖岸の坂本にある
大津の少し北側で
坂本にあるお城なのだ
それと同時に、丹波を平定したから、
その国を与えられて、そこにある
亀山城、今は亀岡市になっているが、
当時は「亀山」と言っていたのだ。
そうすると、三重県にも亀山が
あるものだから、混同しやすい
ということで、
こちらの方は「亀岡」と近年に
なってから変えたのではないかな
と思うのだ。
しかし、もともとは亀山城
だったのだ。
明智光秀というのは、
これだけの力を持った大名
だったのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

