どうも村田です
さらに捕縛された
人間がいて、後に10人が
斬首されているのだ。
攘夷(じょうい)派としては
大変な痛手を被ったわけだが、
実は会合の2時間から2時間半
ぐらい前に
木戸孝允、桂小五郎がやはり
会合に参加するためにここに
来たのだが、
残念ながらというか、彼は
まだ会合が開かれていなく
「ではまた来るよ」と言って、
いったん池田屋から退いた
わけなのだ。
池田屋から出て、近くの
対馬藩邸に行ったのだが、
その間に事件が起こってしまい、
彼は命を長らえたというか、
助かることができたのだ。
もしこの時に桂小五郎が
来たらどうなっていたか
分からないのだ。
殺されたのかもしれないし、
あるいは桂小五郎と
近藤勇(いさみ)は、
試衛館の関係でもって知り合い
でもあったから、どうなったか
分からないけれど、
そういう中で、桂小五郎は
くしくもここで生きながらえる
ことができたのだ。
それは明治維新に大きな力に
なったということは分かるのだ。
しかし、長州藩としては
吉田稔麿以下が随分殺された
から、大きな痛手になったのだ。
この事件を契機に新撰組は実は
3人ほどこれも戦死しており、
安藤早太郎、奥沢栄助、
それから新田革左衛門という
3人が、やはり逃走しようと
している浪士と斬り合いになって、
斬られて 死んでいるのだ。
その場で死んだ者もいるし、
その後死んだ者もいるけれど、
死んでいるのだ。
池田屋事変が、新選組にとっては
最も輝いた事件であり、当然
近藤勇(いさみ)にとっても、
人生の中で最も輝いた、
手柄を立てた事件であったと
思うけれど、この事件が
長州藩に与えたダメージは
大変大きくて、長州藩としては、
この際長州を目の敵にしている、
攘夷(じょうい)を目の敵に
している幕府およびその
幕府の京都における責任者である
会津中将の松平容保、その
お預かりになっている新選組を
解任しなくてはいけないという
意見が出て、
京都に向かって部隊を出す
べきである、要する軍を発する
べきだと、
京都に向かって進言に向かって
進言すべきだという意見が出た
のだ。
それに対して、
「いや、それは時期尚早だ。
ちょっと待て」という
意見があったのだ。
例えば高杉晋作とか、名前の出た
桂小五郎なんかは、後の木戸孝允
だが、
「時期尚早だ」
という議論があったのだが、
「いやいや、そんなことはない。
今からぜひ京都に向かって進発
すべきである」
という議論が大勢を取り、
そして長州藩は大軍を京都に
向けることになるのだ。
この池田屋事変を見たら分かる
と思うが、その池田屋事変は
見方によってというか、
明治維新をやった側からすると
攘夷(じょうい)派の志士を
たくさん殺した、
幕府によるとんでもない弾圧事件
であるというふうに考えられる
かもしれないけれど、
しかし、その池田屋でもって
会合した人々の意見は、
風の強い日に京都の町と御所に
火をつけて
孝明天皇をご動座申しあげて
京都に脱出しようということだから、
これは明らかなテロ行為であって、
京都の町の人々からすると大変に
迷惑な話なのだ。
だから、新撰組のやったことは、
御用改めであると言ってるから、
完全な警察行動なのだが、
しかし、京都の町の人々は新選組に
対して全然その感謝の気持ちを持つ
どころか、壬生の浪士たちという
ことで、
「みぶろ」 と言って大変恐れ、
要するに怖がって嫌がった
というのが本当のことなのだ。
現代に至るまで、京都では
新撰組というのはあまり、
NHKで『新撰組』をやった時
だけはたくさんビラが出ていた
けれども、
垂れ幕があったけれど、
新撰組に対するイメージは
いまだによくないということ
なのだ。
吉田松陰の養子も殺され
長州藩としては激怒して、
そして部隊をすぐ出そう
ということになるのだ。
これが実際に6月の下旬、
これは6月の初めに池田屋事件が
あったのだけれど、
来島又兵衛という人が300
の兵を率いて、三田尻
今の防府から出藩するのだ。
さらに久留米の神官であった
真木和泉という、この人も
長州に身を寄せていたのだが、
彼も浪士を率いて来島に続いて
京都に向かうのだ。
さらに藩主毛利慶親(よしちか)、
後の敬親(たかちか)だが、
毛利敬親(たかちか)も 進発を
認めて、
6月下旬になって家老の
益田右衛門介、それから
福原越後、国司信濃という3家老、
特に福原越後というのは筆頭
家老だから、それにそれぞれ
数百人ずつの部隊を出して、
合計 2,000人ぐらいの部隊で
もって京都にやってまいるのだ。
先発した来島又兵衛の部隊は
天龍寺に入ったのだ。
天龍寺というのは承知の通り、
足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を
弔うために建てたお寺で、
夢窓疎石に建立させた臨済宗の
お寺だが、今現在は大体3万坪
ぐらいの大きさがあり、
実際に行くと分かるけれど、
山まで持っている大変大きな
お寺なのだ。
しかし当時は30万坪、その差
10倍の30万坪の、しかも150の
塔頭(たっちゅう)を抱える方を
大伽藍(がらん)であったのだ。
西には小倉山があり、南には
桂川があるから、完全に要害と
なるところで、
一種のお城のような、そういう
ようなところに部隊を布陣した
のだ。
さらに福原隊も大阪について、
それから淀川を遡上(そじょう)
して伏見の長州屋敷に入ったのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる