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全責任を負ったんじゃ

どうも村田です

「若者たちが

絶対的な暴力に

さらされたこの

神明裁判、

「死の賛美」

とも言うべきものは、

戦後に影響を及ぼす

ことになる。

それは破滅的な痕跡

を残し、1960年代に

再び噴出する

―たとえば

国際テロの引き金と

なった日本赤軍の

登場である。

同様の現象は、

ドイツ社会においては

「バーダー・マインホフ

・グルッペ」、

イタリア社会においては

「赤い旅団」

にも見出される。

最後に特攻隊の本質を

「死の賛美」とし、

それを戦後の

極左テロ集団に

結びつける論理の飛躍

にはついていけないのだ。

しかし、次の章では

「死の賛美」

について説明している

ようなので、検討するのだ

その前に、宿題と

なっていた大西中将の

真意について解説なのだ。

大西は8月16日の未明、

古来の切腹の作法どおり

腹を十文字にかき切り、

返す刀で首と胸を

突いたのだ。急報

で駆けつけた軍医を

睨んで、

「生きるようには

してくれるな」

「介錯不要」といい、

腹を切ってから15時間

あまり、なるべく

苦しんで死ぬ道を

選んだのだ。

大西中将は、

終戦間際まで

「徹底抗戦」を叫び、

「あと二千万人を

特攻に出せば勝てる」

と言ったことから、

「暴将」「愚将」「狂人」

というレッテルを、戦後、

貼られていたのだ。

しかし、副官として

彼を身近で見ていた

門司親徳はそのような

評価を聞く度に

「大西中将は、

けっしてそんな人

ではありません」

と誰彼なしに伝えたい

衝動に駆られたそう

なのだ。

さらに、彼は大西の

遺書にも違和感を

持っていたのだ。

特攻隊の英霊に

曰(まう)す。

善く戦ひたり深謝す。

最後の勝利を信じつゝ、

肉弾として散華せり。

然れ共其の信念は

遂に達成し得ざるに

至れり。

吾死を以て、旧部下の

英霊とその遺族に

謝せんとす。

次に一般青年壮年に告ぐ。

我が死にして軽挙は

利敵行為なるを思ひ、

聖旨に副ひ奉り

自重忍苦するの戒

ともならば幸なり。

隠忍するとも

日本人たるの矜持を

失ふ勿れ。

諸子は国の宝なり。

平時に処し猶ほ克く

特攻精神を堅持し

日本民族の福祉と

世界人類の和平の為 

最善を盡せよ

自決直前に書いたに

しては内容が整い

すぎており、

特に最後の一文は

最後まで徹底抗戦を

叫んでいた人物と

しては余りに不自然だ

というのだ。

門司は、戦後、角田と

再開して、大西の真意

を聞かされたことで

解決の糸口を掴むのだ。

一方、角田も、独自の

確認作業を進め、

昭和50年8月の

フィリピンでの慰霊祭

の弔辞に大西の真意を

盛り込んだところ、

大西夫人からは

「主人が申していた

ことと相違ございません」

と言われ、

列席していた

元第26航空戦隊

先任参謀の

吉岡忠一中佐からも

「よし、あれでいい。

その通り」

との言葉を得ている

のだ。

このような

確認作業を繰り返して、

門司と角田が到達した

結論は、

終戦直前、大西は

終戦派の米内海相の

意向で軍令部次長と

なり、

徹底抗戦派の頭目

として彼等をまとめ、

抑えて終戦に持って

行った。

他方で、大西の

過激な発言は

アメリカを意識して

のもので、

本土上陸を思い

とどまらせるため

だった。

大西は本土決戦さえ

防げれば日本は何とか

生き残れる。

そう考えていた。

そして、終戦を見届けて、

特攻作戦の

全責任を負って

自決したというのだ。

それをまとめたのが、

神立尚紀

『特攻の真意

大西瀧治郎はなぜ

特攻を命じたのか』

(平成27年7月)で、

この本が出たとき、

当時91歳の角田は

「わたしはかねがね

大西瀧次郎中将の

『特攻の真意』を

伝え残すために

生かされてきたと

思ってるんですが、

この本を世に出して

もらって、私の役割は

もう終わったと思うん

ですよ」

と語ったというのだ。

そして3年後に亡くなった

のだ。

一方、門司親徳は

平成20年8月16日、

大西の命日に、

91歳でこの世を

去っているのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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