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伏線があったんじゃ

どうも村田です

橘氏の問題意識は、

アメリカ中心の

資本主義思想が

日本の伝統的農業を

脅かしている現代の

状況と非常に似ている。

こうした背景を

踏まえると、彼が

指摘した問題は

人間社会が未だに

解決できていない

根本的課題であった

のだろうか。

そうであり橘氏は

水戸で農場を経営し、

大正から昭和初期に

かけての時代を生きた

のだ。

当時、都会は発展する

一方で、第一次世界

大戦後の不況や

昭和初期の金融恐慌、

さらに1929年の

世界大恐慌に見舞われた

のだ。

日本経済は第一次産業

を踏み台に

第二・第三次産業の

繁栄を目指したが、

多くの矛盾を抱えて

いたのだ。

橘氏は、その矛盾を

少し調整すれば何とか

なるとは考えて

いなかったのだ。

西洋の金融資本主義文明、

とくにイギリス・

アメリカを中心とする

産業文明が根本的に

誤っていると考えた

のだ。

彼は文筆活動のみならず、

心ある農民を教育する

塾を開き、土と農業の

重要性を説いたのだ。

こうして地元に共鳴者

が集まり、橘を中心と

する思想的結社が形成

され、

昭和期の国家革新運動

において、民間の団体

として大きな役割を

果たしていくのだ。

橘氏の問題意識は

次第に言論や啓蒙活動

として広がり、

多くの著作を通じて

その思想を発信して

いったのだ。

はたして、これが

当時の社会に

どのような影響を

与えたのか。

橘氏の著作活動は

単なる思想の普及に

とどまらず、実践と

結びついていたのだ。

その具体的な現れが

五・一五事件であり、

テーマ本の出版時期と

ほぼ重なっているのだ。

時代背景について

さらに詳しく掘り

下げていくと

本書の印刷は

1932年5月15日、

発行は同年20日だが、

これは五・一五事件が

起きた1932年と

重なっているのだ。

つまり、本の発行

時期はまさに

五・一五事件の直後

であったのだ。

さらに、橘氏は

この事件に連座し、

主要メンバーとして

関与していたのだ。

橘氏が水戸で主宰した

愛郷塾のメンバーは、

五・一五事件において

東京でのクーデター

的行動に参加したのだ。

しかし橘自身は、

自らの思想を広める

ため捕まることを避け、

事件が起こる前に

満洲へと身を隠した

のであったのだ。

五・一五事件は

1932年5月15日に

発生したのだ。

海軍の青年将校や

陸軍兵士、民間人、

学生など

幅広い層の国家改造を

志す者たちが連携し、

(大勢を動員して

国家を転覆させる

ところまでいくような

計画的なクーデター

には至らなかったものの)

志士的な行動を

起こすことで世のなか

の覚醒を促し、

新たな変革の契機と

することを目的とした

事件であるのだ。

五・一五事件の

中心人物である

海軍大尉・藤井斉は

重要な役割を担って

いたが、事件直前の

上海事変で海軍航空隊の

パイロットとして

出動し戦死したため、

実際には事件に参加

できなかったのだ。

五・一五事件の

中心人物だった

藤井大尉はすでに

戦死していたが、

その配下であった

三上卓や古賀清志ら

青年将校が参加した

のだ。

彼らには陸軍兵や

東京帝国大学の学生も

加わり、多くの要人

襲撃を企てたのだ。

最終的に犬養毅

政友会総裁・首相が

首相官邸で暗殺される

こととなり、

これが五・一五事件の

もっとも顕著な出来事

であったのだ。

橘氏は、水戸で農業や

思想活動をおこなう

だけでは国の改革は

成し得ないと考えたのだ。

農業中心の日本を実現

するためには、左翼的

でない日本的かつ

右翼的な革命が必要で

あり、そのために

志ある者たちと長期間に

わたり連絡を取り合い、

組織的なつながりを

築いていったのだ。

突然の参加ではなく、

深い伏線が存在して

いたのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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