どうも村田です

考古学者はもちろん
そうなのだが、
東洋史の先生たちも
この弥生文化の特徴に
ついてすごく注目されて
いたということになり
現在ではこれは全部
崩れているのだが、
当時はそういうような
状況だったのだ。
弥生文化については、
それからこういう
いろいろな先生方が
こういうふうな特徴だ
ということを言われて
いるわけなのだ。
この中で、現在まで特に
影響力を持っているのが、
最後の佐原真さんが
提唱した
弥生土器と農業と金属器
という3大要素によって
特徴付けられるのが
弥生文化であるという
ふうな定義をされたのだ。
この先生の考えた定義で
重要なのは、これまでは
これ以前というのは
土器の時代がその時代だった、
つまり縄文式土器の時代が
縄文時代、
それから弥生式土器の時代が
弥生時代というふうな、
そういう定義だったのだ。
つまり土器という技術、
そういう技術を基準に
時代が決まっていたのだ。
ところが佐原先生は
今日からそういう言い方
ではなくて、
水田稲作の時代を弥生時代、
それから狩猟採集生活の
時代を縄文時代、
つまり技術様式ではなくて
生産様式、経済様式、
それを基準に時代を決める、
その時代の土器が
何々式土器である
というような言い方を
したのだ。
だからこれまでの逆で
弥生時代の土器が弥生土器で、
縄文時代の土器が縄文土器で
あると、
こういうふうに定義を
大きく変更されたわけ
なのだ。
これには理由があり、
研究の最初のころと
いうのは資料の数も
少ないから、
縄文土器と弥生土器、
弥生土器と土師(はじ)器
の境界というのはもう明確に、
誰が見ても分かるのだ。
ところが、研究とか調査が
進んでくると境界が、その
間がどんどんと埋まって
いくのだ。
そうすると
「えっ、どこからが弥生?
どこからが古墳?」
みたいになってくるわけ
なのだ。
研究者によって意見が
分かれるようになって
くるわけなのだ。
つまり土器を基準に
時代を考えていくと
そういう問題が起きるから、
土器を基準にするのでは
なくて、その時代の特徴
で時代を決めようと
考えられたのがこの
佐原先生なのだ。
それに伴ってそれまで
弥生式土器とか縄文式土器
と呼ばれていたのを
弥生土器、縄文土器という
ふうに式を取り、4文字熟語
で表すようになったのだ。
ここら辺が佐原先生の
非常に当時、画期的と
言われる考え方で、
現在にもつながる考え方
なのだ
ところが、佐原先生が
この説を発表した時
というのは、
最古の弥生土器と水田稲作
の始まりの時期が一致して
いたのだ。
だから定義を変更しても
何の問題も生じなかった
わけで
この後、実は水田稲作
だけがさかのぼっていく
のだ。
そうすると最古の弥生土器
よりも農業の始まりが早い
ということになってくる
わけなのだ。
そうすると、この定義だと
弥生時代をさかのぼらせ
なければいけなくなる
わけなのだ。
しかし、これが発表
された1975年はまだ
そういう事態にはなって
いないから、
単なる定義変更という
ふうに学界では受け止め
られたのだ。
そこで世紀の大発見が
起きるわけなのだ。
1978年から1981年にかけて、
九州北部地方で世紀の
大発見が行われたのだ。
まず、これまで最後の
縄文土器と、最も新しい
縄文土器と考えられていた
夜臼(ゆうす)式土器
に、実は立派な水田が
作られていたという
ことが分かるのだ。
これもやはり板付遺跡
になるのだ。
それから水田だけでは
なくて鉄器もそうなのだ。
糸島市の曲り田遺跡と
いうところで一番
新しい縄文土器に伴う
鉄器が出てきたのだ。
ということで、本来は
農業の始まり、鉄器の出現、
そして最古の弥生土器は
同時に出現し、同時に
始まると考えていたわけ
なのだが、
農業と金属器だけが先に
出現していたわけなのだ
板付Ⅰ式土器の最古の
弥生土器がなのだ。
これを踏まえて学界は
大騒ぎになるわけなのだ。
佐原さんの定義に従うと、
水田稲作の時代が
弥生時代だから、
当然水田が出現した時
まで弥生時代を
さかのぼらないといけない
わけなのだ。
そうすると、これまで
縄文晩期と言われていた
縄文土器を弥生土器に
しなくてはいけなく
なるのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

