どうも村田です
ヨーロッパで何度も
経験して、
「この文明は違うのだ。
それは美術館に入れば分
かるではないか」
と思うのだ
あのキリストの磔刑図、
あの暗い闇と光、
「これは日本人の世界ではない、
日本人の美の尺度の中に
あんなものはない」と思うのだ。
だから『ヨーロッパ像の転換』
の扉絵にグリューネヴァルトの、
こんなイエスの姿
(両手を広げたイエスの磔刑)
をあえて出したのだが、
「日本の中にはこんなものはない」
と、それがヨーロッパ像の転換
なのだ
それでふと気が付いてみたら、
同質のものがあると信じれば、
いつか価値の上下ではなくて
同質のものにたどり着く
ことができる、というのを
前提とするから、
私たちはそういう錯覚を捨てて、
「自分が唯一無二である、
どこかにモデルはない」
という認識を深める時が来た、
とあの時も思ったのだ
今もまさにそう思うけれど、
シナ文化に対して、なかなか
それが日本の中では
取れなかった、
今でも取れていないと思うのだ
はやった美術は雪舟の絵を
見れば分かるではないか。
中国の水墨画なのに、何で
雪舟の絵があれほど
褒められるのだろうか。
どうして水墨画があんなに
推奨されるのか分からないのだ
そして江戸時代になっても、
知っていると思うが、中国の
物語が描かれていたのだ。
中国の衣装を着た人が美術の
中に出てきて、お茶わんの
画像なんかでもそうなのだ
今でこそなくなったのだ
昔、西洋から来た大学の
先生から、
「日本の週刊誌の表紙がなぜ
西洋人の女性なのだ。不思議だ」
と言っていたが、
一時そうだったのだ。
今どうだろうか
週刊誌の表紙に女の人が
出てきたときに、金髪の美女
ですか?
そうではないだろう。
いつの間にかそうでは
なくなったのだが、
昔はそうだったのだ
それから「なぜ」と
言われたのは、美顔西洋で
あれはみんな西洋人をモデル
にしているのだ
日本人が西洋人のように
なりたがるというわけなのだ
これも「おかしい」と、
真っ先に言われるまでもなく
「おかしい」と思ったのだ
茶髪の流行なんていうのも、
それだったのだ
何であんなことになった
のだろうか
サッカーの選手がみんな赤く
髪を染めて、
「何だ、バカじゃないか」
と思ったのだ
あれだけでサッカーを見る
気がしなくなってしまったのだ
茶髪というのは白人に
なりたいというわけでも
ないのだろう。
分からないけれど、茶髪には
とにかく変わった別の趣味が
あるのかもしれないのだ。
とにかく、そういう不思議な
行動が栄えたのだ
長いこと日本人の劣等感
というのがあったが、でも
いつの間にかそれがなくなって
きたのだ
それで、なくなったら
いいのかというと、何も
なくなってしまったのだ
今度は目標がなくなって
しまったのだ
少し話が飛ぶが、今の若者の
話だが、今の若者は車は買わない、
スキーには行かない、
海水浴もしない、海外旅行も
したくない、留学など
考えたくもない。
何やっているのかというと、
ネットをいじって家の中で
じっとしている。
こうなってしまったら、やはり
まだ「白人になりたい」と
思っている時代の方がまとも
なのかと思ったりするのだ
余計な話になるけれど、
そんなことでシナ大陸に
対する価値観に対しても、
「日本は自分と異質だ」
ということを徹底的に
認識すれば、そこから
スタートするわけだが、
「いつか同じようになれる」
と思った自分を訂正して
あがくわけなのだ
その結果、あがけないから
何が起こるかというと、
こうやって変なことに
なってくるのだ
それが実は日本の歴史の中で、
江戸時代ぐらいまで続くのだ
そして江戸になって、江戸の
中期ぐらいから変わるのだ
その姿を変えたのは、
荻生徂徠と本居宣長なのだ
荻生徂徠は血の狂ったような
中華崇拝者だが、それゆえに
実は逆に徹底した日本主義者
でもあるのだ
その精神行動の不思議な
ところは今日はとても話が
できないが、
さて、一番大きな問題は
奈良時代まで日本は、
今言ったように中国文明を
受け入れたのだ
しかし平安時代に入って
100年ほど経ったときに、
遣唐使をやめてしまうのだ。
894年で
もはや中国から学ぶものはない、
これは大変なことであるのだ。
そしてそれがいかに正しかった
かというのは、13年後の907年に
唐が崩壊してしまうのだ
あれほど理想的な遣唐使が
求めていた唐が崩壊して
しまったのだ
唐の崩壊というのは有名な
古代史の事件なのだ
それ以降、アジアには国際的
緊張がなくなってしまうのだ
どんな争いがあったか。
この東アジアは戦争はないのだ
海を挟んではないのだ
もちろんあったのだ
日本は白村江(はくすきのえ)
で戦って敗れたり、それから
そのだいぶ前だが、
それで後も絶えず朝鮮半島
からの圧力もあったし、
それから高句麗が出てきて
いろんなことがあったし、
決して古代日本においても
何も争いがなかったわけでは
ないのだけれど、
唐というものはやはり大きく
存在していて、唐がどういう
争いをしたかというと、
今のアメリカのように地域を
安定させたわけなのだ
「唐が一番偉い」と言えば、
みんな唐のまねをするのだ
どんなまねをしたかというと、
礼をまねたのだ
礼というのは儀礼の礼で
元会儀礼という言葉があるのだが
これはお正月の朝廷の儀式
なのだが、礼を競い合ったのだ
どんなことをやったか
というと、とにかく壮麗な
儀式なのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる