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志士なんじゃ

どうも村田です

今回から

「吉田松陰の挑戦と生涯」

と題し、改めて話を書くわけ

だが、

どうしてもすでに書いたり

語ったりしていることと話が

重複してしまうのだ。

だから、今回の話はこれまで

たくさん書いてきたこと、

たくさん語ってきたことの、

いわば要約版というか

ダイジェスト版というか、

ともあれそのような性質の講座

として読んでくだされば良い

のではないかと思っているのだ。


それでは、いくのだ。

今は亡き恩師の1人、九州大学

名誉教授で幕末政治思想史の権威、

山口宗之先生が、

かつてわが国の歴史上の人物で、

あくまでも学術的な研究文献の

出版点数の多い人物をお調べに

なったことがあるのだ。

対象とした期間は明治23年から

昭和33年の68年間で、その期間で

わが国の歴史を学術的な研究文献

の出版点数が最も多かったのは、

1位が吉田松陰の45冊、

2位が西郷隆盛の36冊

という結果になったそうなのだ。

もちろん昭和33年から今、令和7年

までは、すでに67年経過しており

ますけれども、

その間、毎年のようにというか、

年に何冊も松陰関係の本は出版

され続けているのだ。

だから、おそらくわが国の国民の間で、

この140年ほどの歴史を通じて、最も

関心を持たれ続けているのが吉田松陰

という人物であるということは間違い

ないのだ。

さて、その吉田松陰は天保元年、

西暦で言うと1830年、当時の暦で

言うと8月4日、

陽暦で言う と9月20日、長門の国、

今の山口県の萩の松本村に生まれたのだ。

そして安政6年、西暦で言うと

1859年の11月21日、いわゆる

安政の大獄によって江戸で処刑

されているのだ。

ご存知の通り幕末の志士を代表する学者、

思想家で、時に数え年で30歳だったのだ。

以下、年齢は数え年でお話しいたすのだ。

わずか30年で1人の犯罪者として

処刑された若者が、もちろん犯罪者

というのはあくまでも当時の認識として

ではあるが、

ともあれそのような形で亡くなった

1人の若者が、なぜ166年後に至る今も

関心を持ち続けられているのか、

なぜそれほどまでに長くわが国の

人々の間で語られ続 けているのか、

考えてみれば不思議な現象なのだ。

松陰のことが語られ続けている、

そのような現象そのものがすでに

歴史の研究対象になるかもしれないのだ。

そのような現象を見ておりますと、

おそらく松陰はわが国が、わが国で

ある限り、永遠に語り続けられる

人物ではないかと思われるのだ。

逆から言えば、松陰が語られなくなった

時、わが国は、わが国ではなくなっている

のかもしれないとも思われるのだ。

日本という国と松陰という人物は、

それほど不可分の関係にあるわけで、

そのような偉大な人物を私ごときの者が

十分理解することなど、とてもできない

だろう。

また、私ごとき者でも辛うじて理解する

ことができた部分、そのわずかな部分

でさえ、今回の話で語り尽くすことなど、

とてもできないのだ。

それでも今回の話を1つのきっかけにして、

皆さまが松陰について学びを深めて

いただければとの思いで拙い話を

させていただくのだ。

まずは、当時の国際勢から見ておくのだ。

「列強のアジア進出19世紀後半」

ということで、19世紀から20世紀に

かけてのアジアの地図なのだ。

ロシア、イギリス、スペイン、

フランス、オランダ、アメリカに、

つまり白人諸国にほぼ支配されておるのだ。

移民地にされているのだ。

一言で言えば、わが国は絶望的な

国際状況の中にあったわけなのだ。

20世紀を代表するイギリスの歴史家、

アーノルド・トインビーはこう書いて

いるのだ。

「19世紀、東方を望めば、瓦解(がかい)

した諸帝国がトルコから中国に至るまで、

アジアの全大陸にその残骸を並べていて、

至る所の原住民は羊のごとく従順に

その毛を刈り取らせ、ただ黙々たるのみ。

あえて彼らの毛を刈り取る者に立ち

向かって反抗しようとはしなかった

のである。」

以上だが、もしもこれが現代であれば

どうだろうか。

すぐにネット上では、

「日本終わった」とか

「日本死亡」とか

「日本終了のお知らせ」とか、

そういう悲観的な言葉が満ち

あふれることだろう。

なるほど、客観的に見れば当時の

日本をそう言ってもおかしくない

状況だったのだ。

近代的な教育制度も政治制度も

なければ科学技術もない、近代的な

産業も軍隊もない、

白人と比べると体格も小さいし、

希望を持つ根拠などは、どこにも

ないかのような状況だったのだ。

しかし、私たちの先祖は今の悲観的な

日本人とは違い、すぐに絶望したりは

しなかったのだ。

そうではなくて、

「すぐに追い付いてやるぞ。

すぐに対等の国家になってやるぞ。

負けるものか。 くじけるものか」

と、そのような覇気に満ちあふれて

いる人々が少なからずいたわけなのだ。

それが幕末の志士と呼ばれる人々なのだ。

その幕末の志士の中の志士と

言われるのが吉田松陰で、松陰は

その短い生涯の中で地方の小さな村の

一私塾の一教師という立場にありながら、

太平の夢にまどろんでいた日本をたたき起こし、

目覚めさせたのだ。

そして、わが国を取り巻く圧倒的で

絶望的な白人諸国の包囲網を前にしても、

そこに自分の体一つをぶつけ、

そのため自分の身は滅びました

けれども、閉塞(へいそく)した

時代の突破口を開いたのだ。

つづきは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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