どうも村田です

伊賀越えを二泊三日で
実行したのだ。
本能寺の変の時に家康は
堺で何をしていたのか、
ここをもう一回見ていくのだ。
「不可解な5つの疑問点
がありますよ」
ということで、
今までの事実から見た疑問点で
京に7日間滞在したのは何故か、
これは京都に留め置かれたのでは
ないかということなのだ。
おそらく
「あまり早くに堺に行くな」
という意味だろう。
何のためか分からないのだ。
何のために堺に行ったのか、
これは絶対に鉄砲なのだ。
いろいろな珍しいものを
見たいだけで、堺まで足を
伸ばさないと思うのだ。
そして鉄砲、それから、堺を
2日間で切り上げたのは合点が
いかないのだ。
行きたかったのは、京よりも
堺で
「京都と大阪どっちに行きたい?」
と言われたら、
やはり京都の方かなと思うのだが、
当時のこういう武将たちは世界の
珍しいもの が入ってくる、
特にポルトガルを通していろんな
ものが入ってくる、それは堺の
魅力があるのだ。
だから、堺なのだ。
その堺にせっかく行ったのに、
何で2日間で切り上げてしまった
のか、これ が不思議なのだ。
あと、わずか3日で伊賀越えは
可能かどうかということなのだ。
それから、岡崎に帰ってからだが、
『どうする家康』
というテレビドラマで、
本多平八郎忠勝が
「殿は何で出陣しなかったんじゃ」
と言って怒っていたのだ。
一生懸命早く帰ってき たのだ。
そうこうしているうちに京都に
入ったのは、山崎の合戦で勝った
羽柴秀吉だったのだ。
せっかくの天下をギュッと
取られてしまったのだ。
そして、あれはフィクションだが、
本多平八郎が
「何で早く京都に行かなかった
んだよ」と怒ったシーンがあり
しかし、それはもっともなのだ。
この辺の内容を精査していきたい
と思うのだ。
京から堺はどうやって行ったのか
というと、1日で行ける距離では
あるのだ。
江戸時代の古い地図だが、京から
大阪湾に出る川、こ れは淀川で
当然、京都から港があり伏見港
なのだ。
京都の伏見港から、間違いなく
舟に乗って、大阪を通って堺まで
行っているのだ。
当時、大阪の町に石山寺があった
のだが、あそこは浮島がいっぱい
あり、中之島にはあるのだ。
そんな所でも、たくさん良好な
水路があって、そこを舟で
行ったのだ。
これは、実は30名以上の人数が
いたのだが30名以上の人数だけ
ではなくて、荷駄もあるのだ。
それから、そういう場合は陸を
行くよりも、海で行った方が
楽だし速いし、それから
襲われる心配もないのだ。
だから、絶対に舟を使って
いるのだ。
「本当は堺から京に戻る時も
舟を使うべきじゃなかったのかな」
と、今でも僕は思っているのだが、
帰りは舟を使っていないのだ。
ここも不思議なのだ。
堺に行った時に、会合衆のことが
書いてある会館に行き、そこで
あるパネルを見て、 写真を
使わせてもらったのだ。
会合衆の会所跡の発掘調査が
行われた時の新聞記事の写真
なのだ。
これは見ての通り、非常に
くい打ちが多くて、大きいのだ。
これはとんでもない広さの
御殿なのだ。この広さは、
平安京や平城京の大極殿ぐらい
あるのだ。
会所というのは何かというと、
今の商工会議所みたいなもの
なのだ。
つまり、堺の商人たちが集って、
ここでいろいろなことをやるための
場所、商工会議所なのだ。
この跡が発見されたのだが、
とてつもない規模のもので、
堺の目的はこの会合衆、 有力な
商人たちに会うことなのだ。
この会合衆だが、こんなかるたを
見つけたのだ。
「の」
というところで、何と書いて
あるかというと、隅っこの方に
「信長に負けるな」
みたいなことが書いてあり
「信長に負けない気合いを
持った会合衆」というような
ことが書いてあるのだ。
そして、
「の」
と書いてあるのだ。
このかるたを見た時に、会合衆
会館の方に話を聞いてみたら、
「会合衆は、 信長は大嫌い
だった。秀吉は大好きだった」
ということを聞いたのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

