どうも村田です
ジェームス・クックが
登場するのだ
年代は68年から71年が
第1回、2回目は72年から
75年、3回目は76年から
80年なのだ
第3回目で初めてクックは
北太平洋にハワイを発見した
のだ
こちらをグルグルと回った
後ハワイに入るのだ
ハワイの辺りをグルグルと
回ったりして、今度は
アメリカの海岸を襲い、
それからベーリング海峡
まで入ったのだ
ここでまたハワイに戻って
来るのだがそこで死ぬのだ
この帰り船は仲間が
連れて帰った遺体なのだ
遺体で元の地に戻ったのだ
ジェームス・クックは
ちょうどアメリカの
独立宣言とフランス革命と
重なる時期で、
だいぶ時間が遅くなって
いるわけなのだ
「日本では田沼意次が
老中となり、本居宣長は
『古事記伝』の上を
書いた時代。
松平定信が老中となった時期。
ヨーロッパ人のパワーには
何のかんの言ってもやはり
脱帽せざるを得ない
江戸の小春日和を
のんびり楽しんでいた
日本人は、100年後に
手ひどい目に遭うことに
なるわけです」。
次の図はフランスの船
なのだ
その後、フランス革命が
起こり、フランスの
ラペルーズは1回しか
こういう航路を行けなかった
のだ
このような路線で
ご覧のように日本列島の
横を通っていくのだ
そして、宗谷海峡を
抜けるのだ
対馬海峡も通って
いるのだ
そしてこの時驚いたことは、
列島の太平洋側を通っていた
ジェームス・クックの情報を
既に知っており、
連携をとって、こちら側
を通ったのだ
だから、この日本列島の幅を
介して操業しているのだ
そういうことはいわゆる
共同でやっているわけ
なのだ
競争しているのだが、
情報だけは交換しているのだ
そこは西洋でそこのところが
ただの競争ではないのだ
したたかで国際社会はある
わけで戦いながら、戦わない
という、国際社会が出来
上がっているのだ
実際は戦わないということ
で、植民地なのに、
「分割してやろう」と
いうことになるわけなのだ
年表をザッと見ると、
それだけで、いかに物語が
展開されているか分かる
と思うのだ
ザッといくと、1707年から、
「ロシアのカムチャッカ領有、
吉宗八代将軍。その次は
デフォーの
『ロビンソン・クルーソー』
が刊行されたのだ。
清朝が、ロシア領千島を
探検した」。
いよいよロシア人が
近づいてくるわけなのだ
そして、ピョートル大帝の
意を体した、ベーリング
第一次探検隊、
いわゆるベーリング海峡
を確認したのだ。
これはピョートル大帝の
ベーリング探検というのは、
Northwest Passage
(ノースウエスト・パッセージ)
なのだ
すなわち、
Northwest Passage
(ノースウエスト・パッセージ)
というのは、南の海を通らず
に日本まで来るということなのだ
つまりどういうことかというと、
非常に簡単なことだが、
そのような探検を考えてやって
いたわけなのだ
北極海で、これがベーリング
海峡で南の進路を通らないで、
北極海でイギリスが北西に進み、
こちらをぐるっと回ってくるのだ
それで、日本列島はこれで
樺太、カムチャッカ半島
そしてこれが北海道で
ここを抜けてくるわけなのだ
そうしたら早いのだ
ロシアの船、ロシア、
カムチャッカ領有なのだ
そして、ピョートル大帝の
やろうとしたベーリング
第一次探検隊がまだ抜けて
ないのだ
この次にベーリング海峡を
確認するのだ
その時は病気になっていた
大帝は、
「国家的名誉だ。これこそ
何としても実現する」。
各国がこの南太平洋の争いを
していたのだが、あっという
間にロシアが先手を打ったのだ
イギリスと競争をしていたのだが、
ロシアはベーリング海峡を
抜けてアジアまで最短の距離で
行ったわけなのだ
病気であるにも関わらす、
ピョートル大帝は病床から
叫びをあげていたのだ。
何が目的か。
何と驚くべきことに、
経済利益はラッコの毛皮なのだ
ラッコの毛皮でこれが交易の
重要性なのだ
ラッコはどういうものかと
いうと、小動物で毛皮が
高く売れるのだ
そこで捕獲したラッコの皮を
清朝、すなわち満州の貴族に
売るのだ
そういうもうけ方で
年代を見てほしいのだ
わずか1728年実は、この
ころは18 世紀を通じて、
特にこのジェームス・クック
が情報伝達で
「ラッコがどこにたくさんいる」
など教えるのだ
これが重大なことなのは、
わずかの年差によって
ラッコが捕鯨に変わるのだ
クジラの油は何に使うか
というと、初めて機械油に
使うのだ
ラッコを捕獲して自分たちに
使うのではなく、お金もうけ
のためだったのだ
それからクジラだが、
クジラの骨はスカートに
使うのだ
みんな自分たちのものだった
のだ、肉などは捨てたのだ
何が意味しているかというと、
ラッコから捕鯨にいく間に
産業革命があったということ
なのだ
だから、機械油が必要になり
それによって、それまで
アジアの富に頭を下げていた
西洋が自分たちの富にひた
走るようになってきたのだ
このことはわずか30、40年の
差なのだ
その違いが、重大な局面の
展開がここであるのだ
それも日本は黙って見て
いるわけなのだ
「1728年ロシア人、毛皮交易
の重要性に初めて着目」。
「1734年ロシア、中央
アジア遠征隊、キルギス征服」。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる