どうも村田です

これが宣戦の詔書
なのだ
少し付け加えると、
「帝国の周辺に於て武備
を増強して我に挑戦し」
というくだりは、
例えばイギリスによる
シンガポール要塞
(ようさい)の強化、
そしてシンガポール等への
イギリスの東洋艦隊の派遣
がそうなのだ。
それから、1941年、
昭和16年だが、アメリカ
議会では武器対応法が成立
して、
要するにこれが同盟と
同じことをイギリスに
対しては将来の戦い、
日本との戦いなのだ
けれども、
「将来の戦いのために
武器を貸し付けてやる」
ということなのだ。
アメリカ自身も、
アメリカ海軍が航空母艦を
含む機動部隊を主力とする
太平洋艦隊をハワイの
パールハーバーに集結
してしまうのだ。
あるいはグアム島、
ウェーク島等の西太平
洋上に、次々と要塞
(ようさい)を強化
していくのだ。
またマニラ湾、あるいは
コレヒドールというような
要塞(ようさい)を中核
として、
例えば当時
「空の要塞(ようさい)」
と言われていた大型爆撃機、
B-17、B-29の少し前段階だと
いうことは機能を見ても分かる
思うのだ。
フィリピンにB-17を配備
して、フィリピンの戦備
にはいろいろと手を
尽くしているのだ。
そこで実際に戦いが
始まってみれば、日本の
フィリピンへの攻略は
非常に敏速だったのだが
最初はB-17のような
空の要塞(ようさい)が
非常に手ごわい敵だと
思われていたわけなのだ。
そこでもう一度、
「朕(ちん)は政府をして
事態を平和の裏に回復
せしめんとし隠忍久しきに
弥りたるも」と言うのは、
それは言うまでもなく
日米交渉の経過を指して
いるのだ。
その過程で
「彼は毫も交譲の精神なく」
というのは、まさに
その通りであり、
結局アメリカ側は、常に
コーデル・ハルが主張する
日本軍の支那からの全面の
撤退、
日独同盟の解消という
その他のもの、やがて
ハル・ノートに実を結んで
くる原則論でもって、
譲歩とか妥協という
思想は全く持っていない
ようであったのだ。
日本政府も、
「もう日米戦争は
避けられないのではないか」
という厳しい現実を認識
するのだ。
それが昭和16年の8月3日
の対日石油全面禁輸という
強硬措置に直面した時なのだ。
これは、従来は日本軍の
南部仏印進駐に対する
制裁措置として説明される
ことが多かったのだ
けれど、元来石油という
ものの確保が戦争遂行上
の鍵だったわけだから、
昭和16年の戦争早々に
日本はアメリカの対日
航空燃料輸出制限を受けて、
ラインから石油を輸入
するために乗り出すより
ほかなくなるわけで
しかも、オランダも
米英両国の、4国であるから、
ABCD包囲網、America、
Britain、China、Dutch
という
ABCDでうまくできて
いるのだが、その一角に
オランダがいるのだ。
この対オランダの交渉
は不調に終わるのだ。
そこでアメリカの対日
経済封鎖政策が日本に
いよいよ対米戦争、
アメリカとの戦争に
立ち上がらざるを得ないか
という覚悟を決めさせる
モメントになるわけなのだ。
しかし、日本はまだまだ
それだけの戦争準備が
できていないのだ。
近衛は、なお
「万が一にも」
ということで、
日米交渉の妥結に一筋の
希望をかけているのだ。
16年の9月3日のことだが、
大本営と政府との政府
連絡会議と呼んでいるけれど、
その席上で
「もし10月の中ごろまでに
日米交渉の成果が見えて
こなかった場合には、
アメリカとの戦争を
覚悟する」ということで、
「陸海軍は戦争の
準備に取りかかれ」
という国策要綱が採択
されたのだ。
9月5日に近衛から国策
要綱の上奏を受けた
昭和天皇は非常に驚かれて、
というよりも不安に
駆られるわけなのだ。
そして、杉山元(はじめ)
参謀総長と永野修身
軍令部総長との2人、
これが統帥部の2人で
あるが、それらを参内
させて質問を下されるのだ。
「国策要綱は戦争準備と
対米外交交渉を並行して
行うとしてあるけれども、
それは間違いである。
いけない。外交交渉を
主として、戦争準備は
従とせよ」
というお諭しなのだ。
ことに杉山参謀総長に、
「昭和12年に支那事変が
勃発した際、汝は陸軍
大臣だった。
その時、
『事変の解決には
どのくらいかかるか』
と尋ねたところ、
『もうすぐにも片付けます』
と答えた。
ところが、
それから4年経っても
事変は片付いていない」
と、痛いところを突かれる
わけなのだ。
そこで杉山が、
「支那大陸はなにぶん
奥が深うございますから」
と答えると、
「支那大陸に比べれば
太平洋はもっと広い
ではないか」
とおっしゃられ、
そこで杉山総長も御返事
のしようもなく黙りこんで
しまうのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

