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オリジナルなんじゃ

どうも村田です

話が脱線するが、

『インディ・ジョーンズ』

という映画は、

キリストの血を

受けた聖杯を求めて

冒険するという内容

なのだ。

聖杯はオリジナルで

唯一無二のものだから、

それを必死になって

探し求めるのだ。

いかにも西洋人の

発想から生まれた

映画なのだ。

もし日本だったら、

どこかにコピーが

つくられていて、

それを見つければ

良いという話に

なっているだろう。

そもそもコピーで

あっても立派な

御神体なのだから

西洋的な発想は、

オリジナルこそ

究極の価値の源泉

ということなのだ。

それが秩序を構成

するのだ。

ところが日本人は

そういう思想を発展

させてこないのだ。

逆にいえば、それぞれが

コピーを持って正直で

さえいれば、

「主権者」

が唯一に決まらなく

ても秩序は出来上がる

ということなのだ。

日本人本来の秩序

とはそういうもの

なのだ。

明治時代以降の

天皇は、まるで

一つの聖杯になって

しまったのだ。

オリジナルになって

しまったのだ。

そしてそれを

「国体」

と呼んでしまったのだ。

あと大嘗祭

(だいじょうさい)

なのだ。

折口信夫

(おりぐちしのぶ)

が唱えた説、

つまり天皇霊を

新天皇がお受けに

なるという解釈に

興味を持つのだ。

ただ宮内庁や政府は

その説をすべて否定

しているが

近代的な立憲君主が

「霊」

などというオカルト

的なことをいっては

いけないと。

折口説がどの程度

正しいかは別としても、

天皇霊というものが

あって、

それが新天皇に

入り込まれる

ということは、

オリジナルとコピー

の弁別ではなく、常に

オリジナルになって

いくということなのだ。

前の天皇の亡骸の

横に寝ると、天皇霊が

移っていくのだ。

天皇霊と交わる

ということなのだ

いまの話を、

北畠親房的に

わかりやすく

例えると、

君徳を受け継げば

いいものの、

明治時代以降に

なって天皇の

「血」が殊更に

重視されるように

なってしまい

さらに男系の血

でないとまずい

ということになって

いったのだ。

だが

『神皇正統記』

のどこを読んでみても、

そのようなことは

書いてないのだ。

「男性の血筋で

つながっていて、

そこから女性が

出てきたとしても

『中継ぎ』に過ぎない」

というのは、

そういう解釈も成り

立たないわけではないが

『神皇正統記』

にはどこにも書いて

いないのだ。

仮に北畠親房が現代に

蘇ったとしたら

「親房先生、いま皇室

の継承で揉めているの

です」

と問いかけてみて

「男系でいくのか、

旧宮家を復活させる

のか。あるいは

女系でもいいのか、

親房先生はどう思われ

ますか?」

と聞いてみると

すると親房は

「どの血が継ぐかでは

なく、徳のある人物が

継ぐかどうかが重要で

ある」

とおそらく答えて

くださるのではないか。

社会学的な血統に

拘るのは、ある意味、

中世の彼岸的世界が

消滅し、

江戸時代以降に

現世利益が強く出て

しまったことの最たる

例ではないだろうか

「Y染色体があるか

どうか」

といい出したら

終わりなのだ。

北畠親房は、

はっきりと述べて

いるのだ。

「皇位継承は天皇の

御上位に任せ、傍流

から正統(しょうとう)

へお戻りなさるには

十分意を用いるべき

ことがあるはずである。

神は万民の生活を

安らかにすることを

本来制するべきだ。

天下の万民はすべて

神のものである。

天皇は尊い存在で

あるが、

ひとりだけで喜び、

万民を苦しめる

ようなことは

天も許さず、神も

祝福しないはずである。

その政治が徳性か

否かによって天皇の

運が開かれるか

ふさがれるかが

決まってしまうもの

だと思われる」

いまの保守派の

天皇論は非常に

視野が狭いような

気がするのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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