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送りだすんじゃ

どうも村田です

幕末というのは、

いわゆる嘉永6年、

1853年にペリーが

浦賀にやって来た時

から始まるのだ

そして明治維新までの

15年を普通は言うのだが、

まだ嘉永6年に

ペリーが浦賀に来た

その3年後ぐらいに

近藤勇(いさみ)は

試衛館の道場を継いだ

ということなのだ

幕末にペリーが浦賀に

来たことによって、

ひょっとすると外国と

一戦交えるのかもしれない

ということで、江戸

だけではないのだが、

武士の世界では大変な

騒ぎになるのだ。

それまで侍というのは

もちろん日本刀を差して

いるのだが、

平和な時代が長く続き

実際に刀を差していない

のだ。

みんな竹みつなのだ。

刀は重いから、大刀だと

下手をすると3キロぐらい、

あるいは大業ものだと

4キロぐらいになるし、

大小合わせて5~6キロの

刀を常に左に差している

のは大変だから、

みんな脇差を差していた

のだ。

まず抜くことはないのだ。

実際に刀の柄のところには

全部柄袋というのをして、

抜けないようになっている

わけなのだ。

だから、誰も本刀を差して

いなかったのだが、いざ

ペリーがやって来て、

アメリカかどうかは

分からないけれど、列強と

戦になるかもしれない

ということになると、

これは大変だということで、

誰も皆質屋に行って、刀を

受け出すことになるのだ。

みんな当時は貧しかったから、

特に中級、下級の武士たちは

貧しかったから、

みんな質屋に刀を入れていた

のだが、それを受け出す

ことになるのだ。

受け出しただけではダメで、

受け出した以上、戦わ

なくてはならないから、

戦うためには剣道場に

通わなくてはいけないのだ。

そこで、幕末にあちらこちらの、

試衛館は弱小剣道の剣道場

だったと思うけれど、

そういうところも含めて、

大変賑わうようになったのだ。

多くの人が試衛館道場に

集まってくるというような

状況になったのだ。

それと同時に、このころ

京都においては

尊王攘夷(じょうい)

の運動が、

要するにアメリカのペリー

がやって来たことによって

日本に開国を迫られたのだが、

そんなことは許せないと、

攘夷(じょうい)運動

というものがものすごく

盛んになるのだ。

日本には天皇がいて、

そして鎖国をしていて、

よその国の、

要するに外敵というものは

入れないのだという思想が

普通に考えられていたから、

そういうものを排斥する

という意味で攘夷(じょうい)

運動というのが非常に盛んに

なってきたのだ。

その攘夷(じょうい)運動

をやっている中において、

このままの幕府のやり方では

本当に除外できないのでは

ないかとなったのだ。

幕府は外国の力というもの

を大体薄々分かっていたから、

それは1830年代のアヘン戦争

において清国がイギリスに

敗れたわけだが、

あの二の舞になっては

いけないということで、

そのぐらいだったらむしろ

外国と通商した方がまし

なのではないかということで、

老中阿部正弘は、幕府

としては開国することも

やむを得ないと、

本当は攘夷(じょうい)

をしたいのだけれど、

攘夷(じょうい)すると戦に

なって負けてしまうかも

しれないということで、

開国する動きになるのだ。

しかし、開国することは

許されないという人々が、

要するに攘夷(じょうい)派

の侍たちや藩が、

あるいは多くの人が、

日本人はほとんどそうなのだが、

そういう考え方を持っていた

から、ここで大きなあつれきが

生じるわけなのだ。

だから、幕府はいったん

攘夷(じょうい)と決めた後に、

朝廷の勅許を得ずに開国を

しようとするのだ。

井伊直弼(なおすけ)は

開国をしようとしたり

するのだが、

それにまたものすごい

反対運動が起こるという

ことで、

京都の町では尊王を掲げて、

そして生ぬるい政策しか

やらない幕府に対して

倒幕運動というものを

していこうという浪士たちが

大変増えるのだ。

そして少しでも開国をしよう

とか、あるいは攘夷(じょうい)

に反対するというものを斬る

という

言ってみれば

反攘夷(じょうい)派に

対するテロ運動みたいな

ことが起こってくるわけなのだ。

そういう中で殺されていた

公家さんもいるのだ。

京都はそれまで

京都所司代というのがいて

治安を預かっていたのだが、

とても京都所司代だけでは

治安が賄いきれないということで、

会津にいた会津中将の

松平容保が京都守護職として

新たに京都の治安を任される

ことになり、京都に赴任したのだ。

そういう中で、今の山形県の

郷士である清河八郎という人

がいて、

この人は豪農の出身、

郷士の出身で、本名は齋藤

というのだが、

清川村出身だったから

清河八郎と名乗ったのだ。

この清河八郎が、幕府に

対して提言をいたすのだ。

「今度攘夷(じょうい)を

実行しますよ」

ということで、

第14代将軍の

徳川家茂(いえもち)は

上洛することになるのだが、

その上洛の警護に浪士を

集めて、そして警護の役に

就けたらどうか、

京都に一緒に行かせたら

どうかと、要するに一緒に

同行させたらどうかと

いうことを幕府に対して

提案するのだ。

幕府としては、本来将軍の

警護だから、本当は旗本が

やらなくてはいけないのだが、

この時代の旗本というのは

かなりやわになっていて、

本当にその京都の過激な

浪士に切り結ぶことが

できるようなレベルなのか

というと、とてもそうでは

ないのだ。

それで、同じ江戸にいる

浪士で、むしろ幕府に、

要するに将軍の警護をしたい

という者を集めて警護を

させれば一石二鳥というか、

毒をもって毒を制すというか、

自分たちが雇った者では

あるけれど、

幕府の人間ではない、

旗本ではないので、万が一

何かが起こっても傷はつかない

ということで、浪士組を募集

することにしたのだ。

50人ほど募集したのだが、何と

250人集まったのだ。

250人のうちには本当の

武士もいればそうでない者

もいたのだが、

幕府はとりあえず250人全員を

雇い入れることにして、

そして浪士組と今言ったが、

浪士組という名前をつけて、

そして京都に送り出すことに

したのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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