どうも村田です

国民の近代的な
継承感覚に合わせて、
古代から続く継承感覚、
継承事実を捨ててしまって
いいのかというのが、
この女性宮家などと
いうような問題なのだ。
繰り返すが、古代の氏の
継承感覚では、母系や女系
という血筋は存在しない
わけなのだ。
あるのは、様々な男系、
父系だけだということ
なのだ。
もし、女性宮家なるものが
建てられて、その当主が
皇統に属さない
男子と結婚して、その
子供が皇位を継ぐという
ことになった場合、
それは女系、母系による
皇位継承ではなくて、
別の父系への移行、
つまり神武天皇以来の
皇統の断絶と、祭り主
としての、皇祖神を祭る
祭り主としての地位を
失うということになる
ということなのだ。
それでは、
「それでも国民がいいと
いうのであればいいでは
ないか」
という考え方もあると
思うが
その先に何が待っているか
というと、祭り主としての
天皇の地位と
不可分な父系継承を否定
されたら、皇祖の祭り主
ではない天皇が存在する
ようになるのだ。
そうなると、次に待って
いるのは
「だったら、もう皇祖の
祭り主じゃないんだから、
天皇陛下にも信教の自由が
あるだろう。信教の自由を
認めろ」
という話になってくるのだ。
信教の自由を認めるなら
職業選択の自由や、居住の
自由もあるということに
なるのだ。
そういうことで、今天皇の
地位に伴って認められて
いない様々な人権が認め
られていくということに
なると、
最後はどうなるかというと、
一般人と変わらなくなるのだ。
一般人と変わらない人を
なぜそんなに尊重して、
あんなに広いところに
住ませておかないと
いけないんですか、
ということになって、
結局天皇の地位そのものも
否定することになっていく
ということなのだ。
だから、結局女性宮家などに
賛成している方は、実際には
天皇がなくなった方がいいと
思っている方々が多いわけ
なのだ。
共産党が賛成していると
いうのはまさにそれなのだ。
そういう深謀遠慮のもとに
やっているのだ。
別に彼らは皇統が続くこと、
皇位が続くことを望んで
いないのだ。
望んでいない人たちが
賛成しているということが
何を意味しているのか
ということをよく理解
しなくてはいけないと
思うのだ。
それでは、女性天皇も
何人かいらっしゃったのだ。
しかし、女性天皇はすべて
お父さんが天皇だったので、
祭り主の資格があるわけ
なのだ。
それでは、なぜ少なかったのか
というと、いろいろ理由が
あるのだが、
1つ思うのは、お祭りした
ことがない人はあまり
分からないと思うのだが、
決められた時に決められた
お祭りをずっと続けていく
というのは、
特に古代においてはそんなに
簡単なことではないのだ。
特に女性においては
そうなのだ。
例えば天皇の即位儀礼の
中で最も大事な大嘗祭
(だいじょうさい)
というのがあるけれど、
これは要するに古代では
極寒の時にやるわけなのだ。
夜を徹してちょうど毎年の
四方拝と同じような感じ
なのだ。
だから、この大嘗祭
(だいじょうさい)には、
これまで皇后は近代になる
まで関わっておられないのだ。
近代になってから、
ヨーロッパの影響も受けて
皇后拝儀という儀礼が付け
加わるのだが、
明治4年11月17日の明治天皇の
大嘗祭(だいじょうさい)
の時に、
皇后陛下は欠席されている
のだ。
なぜかというと、お風邪を
引いていたからなのだ。
大正4年11月14日の大正天皇
の大嘗祭(だいじょうさい)
の時も欠席されているのだ。
なぜかというと、ご懐妊
だったからということ
なのだ。
そういう事情で、ここの
役割分担がないとお一人の
方でそれを全部兼ねていく
というのは、
実は女性にとってものすごく
過酷なことを課している
ということになるのだ。
「ちょっと今妊娠してるんで、
大嘗祭(だいじょうさい)は
勘弁してください」
ということにはいかないと
いう感じなのだ。
次に、よく
「神話に遡れば皇祖神は
天照大神
(あまてらすおおみかみ)
なので、女系じゃないか」
という方がいるのだ。
これも実は結構近代的な
感覚なのだ。
『日本書紀』を読んでみると、
オシホミミノ命(みこと)が、
スサノオノミコトと
天照大神
(あまてらすおおみかみ)
の誓約(うけい)によって
誕生するのだが、
その時に『日本書紀』
によるとオシホミミノ命
(みこと)が生まれた時に、
少し複雑なのだが、天照大神
(あまてらすおおみかみ)
がものを交換して産むのだ。
天照大神(あまてらすおおみかみ)
はスサノオノミコトが
持っていた剣から
女性神を生み、
スサノオノミコトは
天照大神(あまてらすおおみかみ)
の勾玉(まがたま)から
男性神を生んでいるわけなのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

