どうも村田です

神様をお祭りして
いるのだ。
九州なので、台風なども
よく来るのだ。
台風のときにも、たった
1人でこの島にいて神様を
お守りし続けるというのは、
なかなかな任務、お役目
だなというふうに思うのだ。
私が直接お話を伺った
職員さんは、
「自分は行くのが
結構楽しみだ」
というふうにおっしゃって
いたのだ。
台風が来たら、すごく
がたがた揺れるそうだが
それでも特に寂しいと
いうこともなく、
ただ病気になったりした
場合は大変だそうだが、
電話はきちんと本土と
繋がっているので、
どうしてもというときには
連絡をして、早めに次の
交替してくれる人と
バトンタッチするということ
もあるのだそうなのだ。
先ほど申しあげた沖ノ島だが、
今ではこのように御社殿を
造っているのだ。
写真で、よく目をこらして
いただくと、御社殿の右奥
に巨岩があるのだ
屋根に少し覆いかぶさる
ような形で一部出っ張って
いるのだが、
これがまさにご神体と
されていた岩の1つなのだ。
こういった巨石、巨岩が
沖ノ島にはたくさんあるのだ。
宗像大社との縁なのだが、
現在、葦津敬之宮司が、
この宗像大社の宮司さん
なのだ。
葦津さんは、学生時代に
明治神宮の武道場の
至誠館で稽古を始めたころ
なのだが、
明治神宮のすぐ隣にある
神社本庁という所にお勤め
していたのだ。
そこで広報課におられて、
武道の師匠がご縁で、
葦津さんやその他の
方々とともに、
「千年の森づくり
実行委員会」
というのを一緒にやって
いた仲間だったのだ。
千年の森というのは、
「明治神宮の森を見習って、
当時問題になっていた
東京湾のごみの埋め立て地
を天然林かと見紛うような
森として残していこうよ」
という運動というか、
そういった思いを持った
人たちの集まりだったのだ。
明治神宮の森が人工林だ
というのは、ご存知だろうか?
通い始めて数年経つまで、
てっきり天然林だろうと
思っていたのだ。
それぐらい豊かな森なのだ。
東京は、とにかく夏は
灼熱(しゃくねつ)地獄
と言っていいぐらいの
暑さになるけれど、
明治神宮の森の中に
1歩入ると、すぐ隣を
走っている首都高速の
騒音からも、
排気ガスからも森が
シェルターとなって
守ってくれて、とても
温度も下がるし、
空気もおいしくなるし、
静かだし、そういった
空間になっているのだ。
実際に、たくさんの
生き物たちがいるのだが、
もともと森だった場所
ではなかったのだ。
国民から大変慕われて
いた明治天皇が崩御されて、
「その威徳を何とかして
後世に伝えていこうよ」
という趣旨でつくられた
のが、明治神宮という
森になるのだ
面白いことに、50年後、
100年後、150年後に、
今植えた木々がどういう
ふうに遷移して
森が構成されていくか
ということを、
本多静六博士を中心とした
当時の林学者たちが、
粋や知恵を寄せ集めて、
計画して造られたのが
あの森なのだ。
その森を見習って、
「ごみの島を森とし
て残していこう」
という活動を一緒に
していた葦津さんが、
その後実家のある
宗像に戻って宮司さんに
なられたというのが、
宗像大社と私をつないで
くれたご縁になるのだ。
戦後ルバング島に長く
おられた小野田寛郎
(ひろお)さんをご存知
だろうか?
戦争が終わってからも
1人で戦い続けておられた
方なのだが、
その方がようやく帰国して、
日本に住むようになった時に、
「日本はこんなふうに
変わってしまったんだ」
ということに非常に
ショックを受けたそう
なのだ。
例えば、子供が金属バッド
で親を殴り殺してしまう
ような事件などで非常に
衝撃を受けて、
自然塾というのを始めた
のだ。
自然の中で、いかにして
生き抜いていくかという
ことを教える塾だったのだ
そこと千年の森も連携し
小野田さんから実際に
いろいろな技を学ぶ
キャンプを行ったりもして
いたのだ。
そのキャンプには
いろいろな分野の方が
集まってきて、
2泊3日なりを共にしながら、
サバイバル術を学んだり、
炭焼きをしたりしていたのだ。
そういったノウハウを
葦津宮司は、きちんと
宗像でも生かしておられる
のだ。
というのが、
宗像国際環境会議に
繋がっていくのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

