どうも村田です

海軍内において、
橘氏の講演は熱意を
もって迎えられた
のだろう。
とくに飛行機部隊が
拠点とする霞ヶ浦での
講演であったため、
同様の思想をもつ
将校が多い場所で
おこなわれたのだ。
当時の世界の状況から
国内情勢、さらに
マルサス主義や
マルクス主義の批判など、
多岐にわたって講演が
連続しておこなわれた
ということであるのだ。
1932年といえば、先に
挙げられた上海事変や
血盟団事件、
五・一五事件のほかに、
特筆すべき事件はほかに
あったのだろうか。
この時期は、1929年
からの世界大恐慌の
ただなかであり、
現在のグローバリズム
とは異なるものの、
基本的には
第一次世界大戦後の
1918年以降、アメリカと
イギリスが経済的に
もっとも裕福であったのだ。
第一次世界大戦期において、
世界でもっとも裕福な国
となったアメリカは、
産業資本主義と金融資本主義
を世界のエンジンとして
牽引したのだ。
第一次世界大戦後は
国際協調による自由貿易化
が進み、
先進国はアメリカとの
貿易で繁栄するという
流れがはっきりと表に
出てくる時代となったのだ。
しかし日本国内では、
この国際協調路線に対し
疑問もあり、
むしろ日清戦争や日露戦争、
第一次世界大戦の流れを
踏まえて、
アジアでの覇権確立を
重視する声が強まっていた
のだ。
中国は清朝崩壊後の
混乱期で中華民国が
統一できず、
日本は東アジアや
朝鮮半島の支配を拡大し、
満洲や中国内の
経済権益を広げることが
日本の発展に不可欠と
考えられていたのだ。
つまり国内では、
国際協調主義を支持する
平和的な路線と、
大陸進出による強硬路線
のふたつの流れが対立
していたのだ。
国際協調でなんとか
なるんじゃないかという
考え方のほうがより
平和的であるうえ、
力をそれなりに持って
いたのだが、1929年の
世界大恐慌によって
アメリカ経済は深刻な
打撃を受け、国際協調主義
への期待は大きく揺らいだ
のだ。
日本においても、
アメリカについていくとか、
国際協調を唱える勢力は、
日本の方向を誤らせて
いる人だというふうに
思われ、批判を受ける
こととなったのだ。
そうすると、国際協調主義
は弱まっていくのだ。
血盟団事件の標的と
なった井上準之助は
国際協調派の重要人物
であったが、
日本の貧しい民衆からは
都市産業文明の代表として
嫌われ、暗殺されている
のだ。
こうした時代背景のもと、
日本はどの方向に進むべき
かという大きな岐路に
立たされていたのだ。
まさに世界が世界恐慌
などを経てダイナミックに
動いている時期であった
のだ。
そのなかで橘氏は、
「世界の資本主義や
西洋型近代文明が
ついに行き詰まった」
と認識したのだ。
橘氏は五・一五事件
勃発のときは満洲へ
逃れていたが、
単なる逃亡ということ
ではなく、印刷直後の
著書
『日本愛国革新本義』
を約50冊携え、満洲で
配布し、
日本の将来像を宣伝
するとともに、関東軍
などに働きかけて
支持者を増やそうとした
のだ。
その狙いは、
五・一五事件の動きと
連動させ、日本を大きく
改造することであった
のだ。
橘氏は、単なる無縁の
立場で満洲に渡った
のではなく、海軍人脈を
頼みとしていたのだ。
当時、霞ヶ浦司令官を
務めた経験をもち、
藤井大尉ら
航空畑の革新派将校から
兄貴分的存在と仰がれた
海軍提督・小林省三郎が
満洲に赴任しており、
橘氏はその庇護を受ける
形で満洲へ渡ったのだ。
最初に紹介するのは
「序」であるのだ。
ここは
「昭和7年5月5日著者」
との署名があるため、
印刷の始まる直前に執筆
したということがわかる
のだ。
どっからどこまでくさり
果ててしまった。どっから
どこまで困りはててしまった。
全体祖国日本はどこへいく。
我々はどうな
祖国日本は亡びるというのか。
我々はどうにもこうにも
ならんというのか。
なんの、なんの、なんの!!
日本は厚生する。
そして我々は立つ。
またかくてのみ救われるべき
世界の現状であったのだ。
みんなして、みんなして、
誰もが。みんなして、
みんなして、誰もが。
俺達日本人はみんな誰もが
同胞だったのではないか。
みんな誰もが同胞だった
からこそ生きてこられた
のではないか。
そして生きてゆけるのだ。
一切をこの本道へ引き
戻さねばならん。
そして俺達日本同胞は日本を
同胞として抱きしめて
立たねばならん秋(とき) が
ついに来たのだ。
(『日本を救う農本主義
「- 日本愛国革新本義」
「序」より抜粋)
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

