どうも村田です
清水が仮に戦後も
生き続けていたならば、
どのような思想的変遷
を遂げたのか、
大いに興味深いところ
であるのだ。
しかし彼は最期、ソ連の
収容所で命を落とすこと
となったのだ。
戦後の焚書処分の理由に
つながっていくまでの話
として、つぎのことを
述べてみたいのだ。
もし清水が戦後も歴史家
として迎えられたならば、
戦争から帰還後、
歴史学者として活躍する
機会があったはずである
のだ。
その際に、彼が戦中に
書いたものについて
どう述べるかは非常に
興味深いのだ。
おそらく、彼は自分の
書いたものを一切否定し、
戦後の民主主義的な
言論空間に戻ったかも
しれないし、沈黙を
選んだ可能性もあるのだ。
あるいは、戦中の発言を
踏まえて新たな学者
としての道を歩んだかも
しれないのだ。
清水が生きていたならば、
彼のように、自分の
体験のなかでこれだけの
ことを考えて、
自分なりに歴史、自分の
思想を鍛えて発展して
いける人であれば
単純なGHQ的な歴史観に
埋没するような人物では
なかったと考えられるのだ。
彼が戦後にどのように
自己の思想を発展させた
のかは非常に興味深く、
戦後の歴史学にどのような
影響を与えたのかを考えると、
彼の書いたものが焚書され、
最期が痛ましいもので
あったことが残念である
のだ。
『素描 祖国の歴史』
が焚書とされた理由の
ひとつとして、
清水がソ連軍の捕虜
となり、シベリアに
抑留されていたことが
影響している可能性が
あると考えるのだ。
まずソ連にとって清水は、
共産主義における
裏切り者であったのだ。
当時、ソ連にとって
共産主義者は単なる学者
ではなく、世界革命の
ための尖兵であったのだ。
学者もまた、その役割を
担う存在であったため、
転向者となった彼はソ連に
とって裏切り者と見なされた
のだ。
その点がまず一つ
重要であるのだ。
さらに、
『素描 祖国の歴史』
の内容をみると、
そこには神国思想や
日本至上主義、他国を批判
する要素はほとんど
含まれていないのだ
皇室を中心とした歴史観は、
当時の状況において
ひとつのタブーであった
可能性があるのだ。
にもかかわらず、なぜ
焚書の対象となったのか
は不思議であるのだ。
清水がソ連に抑留され、
ソ連側から見れば敵対的
な組織の側に属していた
ことは重要な要因であるのだ。
既述のとおり、20世紀初頭は、
自由民主主義や進歩主義、
資本主義の限界が意識され、
それを乗り越える必要が
あると考えられた時代で
あったのだ。
その潮流のなかで
ファシズムは一定の
輝きを放ち、多くの
国々に広がったのだ。
また、共産主義も理想に
満ちた思想として支持を
集めていたのだ。
ファシズムは
第二次世界大戦後には、
悪の象徴とされたのだ。
ということは、当時の
アメリカ進駐軍の内部には、
単なるスパイや
コミンテルンの関係者に
とどまらず、広範な
民主主義者のなかにも
共産主義にシンパシーを
持つ者が多数存在し、
これこそが世界を導く
思想であると信じる者が
浸透していたのだ。
これは日本においても
同様であったのだ。
こうした状況のなかで、
清水が左翼からの
転向者であったことは、
『素描 祖国の歴史』
が焚書とされた理由の
一因となった可能性が
あると考えられるのだ。
これは証拠のある話では
なく、あくまで推測に
過ぎないのだ。
当時の焚書の基準自体が
明確に定められていた
わけではなく、
単に「祖国」や「皇室」
を称える内容であった
だけで焚書となった
可能性も否定できないのだ。
しかし、進駐軍の
焚書基準を考える際、
日本の立場を称揚するもの、
日本の主張を強く
押し出したもの、
そして進駐軍の歴史観に
反するものが対象とされた
ことは確かであるのだ。
その進駐軍の歴史観には、
共産主義的な要素が
一定程度含まれており、
とくにソ連を敵視する
言説に対しては厳しい
検閲が加えられたのだ。
この点についても考慮
する必要があるのだ。
清水は一時、
マルクス主義に傾倒
していたのだ。
その後、シベリア抑留に
送られることとなり、
彼がどのような気持ちで
その地で過ごしたのかは
想像することしかできない
が、その思いにはやるせ
なさを感じるのだ。
彼の人生はこれで閉じて
しまったが、書物は残り、
復刻されるのだ。
これを読み継ぐこと
こそが、彼への供養で
あると考えられるのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる