どうも村田です

「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ」
《古来、忠孝の道を
尽した史上に有名なる
士は尠くない。
楠木正行の如きも
忠孝両道を完うした
臣民であるが
(=楠木正成の
息子の楠正行)、
図にある平重盛も
亦正行とは異なった
意味に於いて
忠孝の二道を践んだ
忠良の民である。
保元、平治の乱が終息
を告げると、平家の
勢力は絶頂に達し、
清盛の横暴専恣が益々
募って来たので、
後白河法皇は
非常に御憤激になり
僧俊寛等の所謂鹿ヶ谷
会合が行われた。
ところが内通者の
為めに清盛は激怒して
之を斬らしめたが、
尚飽き足らず、
怒を皇室に向け、
剃髪隠居の身であり
乍ら、
武装して恐多くも
法皇を押込め奉ろうと
した。
此の事を耳にするや
其の子小松内大臣重盛
は遽しく清盛の館に
駈け込んで
忠の道を解き、涙を
流して諫めたので、
清盛も重盛の諫言を
容れて遂に挙兵を
思い止った。
図は重盛諫言の模様
を写したものである。》
「父母ニ孝ニ」の解説
藤の木の下で中江藤樹が
学問を教えている。
《世に謂う近江成人
中江藤樹は、通称を
与右衛門と云って、
近江国小川村に生れた。
九歳の時、当時伊予の
大洲にあった
祖父中江吉長の許に
引取られて厳格な薫陶を
受けたが、
生来聡明であったので、
武術は更なり、学問の
進境も著しく、
僅か十一歳にして
庭訓や式目の読破に
次いで
(庭訓というのは親から
子に教えるものですね。
式目というのは法令と
か規則のことです。)、
四書大全をたよりに
(四書=大学、中庸、
論語、孟子。大全は
その注釈書)
大学までも読めるよう
になった。
与右衛門は、十五歳に
して祖父吉長に死別した。
然し、其の時にはもう
藩中に並ぶものも無い
学者となっていたので、
藩主加藤貞泰に抽んで
られて一躍学師となった。
寔に昇天の栄達である。
其の間にも、与右衛門が
夢寐にも忘れなかった
のは故郷に在る父母の
ことであったが、
別れて十三年、
二十二歳にして何等
孝養をつくすことなく
病父は遂に死去して了った。
与右衛門は悲痛やる方無く、
遽しく墓参に帰省して
一旦大洲へ戻って来たが、
今度は母を迎えて孝養を
尽そうと考え二十五歳の時
再び帰郷して母を説いた。
然し母は
「亡父の墓を守らねば
ならぬから此の家を去る
わけにはゆかぬ。心配
せずに仕官を励め」
と聴入れなかったので、
与右衛門は空しく引返した。
翌年の正月の事であった。
与右衛門は韓詩外伝の
泉魚の伝を読んでいたが、
樹欲静而風不止。
子欲養而親不待。
というところに至るや、
彼は声を挙げて哭いた。
そして始めて求めていた
ものが得られたように、
明るい気持になって、
母を養う為め断然帰国を
決心したのであった。
帰って見ると、僅かの
間に藤の木の下の軒は傾き、
壁は剥がれ、
昔ながらの音をたてて
機を織っていた母の手は、
寒さに傷いていたましくも
血さえ浸潤み出ていた。
与右衛門は、僅かな持物を
金に替えて、母と二人の
ささやかな生計をたてた。
そして、何くれとなく
母を労わる傍、村人に
書を講じ人の道を教えた。
村人達は与右衛門の徳に
感化されて正しい人
ばかりになり、
醜い争は蔭を絶つように
なった。
与右衛門の名は忽ち近隣に
伝わり、教を乞うものが
日増しに殖えて、
狭苦しい茅屋に収容
出来ぬまでになったので、
晴れた日には藤の木の下に
莚を敷いて其所で講義した。
そこで、誰云うとなく
藤樹先生、近江聖人と
たたえて
中江藤樹の名は忽ち
全国に伝えられた。》
兄弟ニ友ニ
渡辺崋山のエピソード。
生家が貧窮した結果、
崋山の幼い弟妹たちは
すべて、
奉公のために他所に
預けられることになって
しまった。
弟を預けるための寺まで
送ってきて、別れる時の
図がこの絵。
弟は手を引かれ、兄を
振り返りながらも離れていく。
弟思いの崋山のことを
描いた美しい情景。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

