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忠と孝は一本じゃ

どうも村田です

橿原に都を奠め

させられ、始めて

御即位の礼を

お挙げになった。

神倭伊波礼毘古尊

即ち神武天皇は、

実に人皇第一代に

亘らせられ

(=人皇というのは

その前の神々。神代。

神武天皇は

神でもあり人でもある

という意味で人皇と

表現する。その第一代)、

此の御即位の御年を

我が建国の起源紀元

元年とし、

本年は早くも

二千五百九十年を

算するに至った

(=ちょうど、2600年

というのがこの10年後、

つまり昭和15年に訪れる。

それが起源2600年という

ちょうど大きな節目の年

ということで盛大に

お祭りが行われ、

国民こぞって、戦中で

あったにもかかわらず、

お祝いした。

またその年に作られた

のがいわゆるゼロ戦

〔零型戦闘機〕)。

陽春二月十一日は

即ち天皇が御即位の

式をお挙げになった

吉日であって、

従来起源紀元節と唱え、

三大祝日の一に

算えられているが

(=三大祝日というのは

元旦の四方拝、天皇陛下が

お祭りをされている四方拝。

全ての災いが国民を通らず、

我が身を通りますように

という風に祈って

くださっている四方拝、

そしてこの天長節。

紀元節に加えて天長節。

天皇陛下のお誕生日。この

3つを3大祝日としている)、

近年また此の日を建国祭

と呼ぶようになったのは、

寔に意義深い呼び方で

あると思う。》

「徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」

というページに、

仁徳天皇の有名な

エピソードが紹介

されている。

《仁徳天皇は浪速に

都しておいでになった。

一日、高台にお登りに

なって四方を御覧になると、

村々の民家から立ち昇る

炊煙が殊の外乏しかった

ので、民は打ち続く飢饉

のために窮乏しているに

相違ないと御察しになって、

向う三年間の租税を

御免じになり、天皇

御躬らは国民と共に

出来るだけの御倹約を

遊ばされた。

 
此の思いがけぬ鴻恩に

浴した国民は、均しく

感泣して、

之も出来るだけの倹約

をして営々生活の充実、

農事の復活に力を注いだ。

然るに三年という歳月は

決して短いものではない。

国民の租税を御免じに

なった天皇は、其の上

極端の御倹約をなされた

ので、

畏れ多くも御召物が

破れても御繕いも

なさらず、

殿屋は風雨の浸蝕に

委せて其所此所が破れても

御修繕も出来ず、

甚しくは、御床に月光が

漏れ落ちる有様となった

にも拘らず、

天皇は少しも御気に

留めさせ給わず、

三年を経過して

再び高台に登って

四方を御覧になると、

今度は三年前とは

まるで違って、

家という家からは

賑やかに竈の煙が

立ち昇っていたので、

天皇は非常に御悦びに

なり、

「朕は既に富んだ!」

と仰せになった。

国民は、永い間聖恩に

浴して皇室に御不自由

をかけていたので、

生活が充実すると

先を争って租税を納め、

御殿を修築せんことを

願い出たが、

天皇はなおも御聴容れ

にならず、またまた

三年間の免租を仰付け

になった。

御盛徳に感泣した

国民は大いに民力の

充実に意を用いた結果、

漸く国内は富んで来た。

そこで其の三年後に

於て始めて租税は容れ

られ、御殿は美しく

修築された。

天皇は非常にお悦び

になったが、此の

涵養された民力を

持って

以て諸種の社会事業を

御開きになったので、

国は太平の中に

光明ある前途を目指して

進んで行くようになり、

天皇は聖帝として永く

景仰され給うたのである》

「我が大日本帝国は、

古来、皇室を中心とする

一大家族の形をなすもので、

皇室は国民の宗家で

あらせられる。而も、

天祖の神勅に基いて、

建国の初めから君臣の

分が劃然として、国民は

君に忠を致すを以て

道徳の第一義としている。

又、君に忠を尽すは

父母に孝となり、

忠と孝とは一本となって

我が国道徳の根源をなし、

千古の美風をなしている

のである。》

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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