どうも村田です

《皇大神宮は、
二十年目毎に御造営
になる御定めであるが、
其の時に当って勅使を
以て御報告があり、
厳粛な御遷宮の式が
行わせられる。
昨昭和四年は恰も
神宮御造営の御年に
当たり、
目出度く御遷宮の
御儀式を以て御神体は
神殿へ御移徙
あらせられた。》
この画鑑の表された
前年は、いわゆる
式年遷宮が行われて、
伊勢の神宮の五社殿、
宝物、装束、全て
新しく作り変えられ
ご神体が移られた年
だったことがわかる。
《敬神の道は、古来
大和国民の大道であり、
皇祖を敬うは国を
護するの忠誠である。
よろしく日本国民は、
世界に冠絶せる我が
国体の尊さを思って、
天穣無窮の皇運を
扶翼し奉るべきである。》
天穣無窮
(てんじょうむきゅう)
の皇運というのは、
雨土のように極まること
のない、終わることの
ない天皇の道ということ
を表している。
それを扶翼し奉るべき
というのは、助けるべき
程度の意。
《何れの国にせよ、
国民として自分の国の
歴史を知らぬものは
国民たるの資格が無い
とは、更めて先哲の
言を籍るまでもない。
国民は何を措いても
自分の国は如何なる
国体であるか、
自分の国の歴史は
どうであるかという
ことを知って置かねば
ならぬ。
殊に、我が国のように、
世界に類例の無い、
曽つて他国の侵略を
受けたことの無い、
而も君民同祖の永い
美しい歴史を有っている
国民は尚更のことである。
明治天皇は、教育勅語の
第一段に於いて
我カ皇祖皇宗国ヲ
肇ムルコト宏遠ニ
と仰せられて、
日本の国体はかくして
造られたものであると
御諭しになった。
謹んで按じ奉るに
(=按じというのは
考えを巡らすこと)、
皇祖天照大神は、
皇孫瓊々杵尊を我が国
にお降しになるに当って
豊葦原の瑞穂の国は
是れ吾が子孫の
王たるべき地なり。
汝皇孫就て治せよ。
宝祚の隆まさんこと
当に天穣と窮りなかるべし
と仰せになった。
国土へ御降臨の大命を
受けられた瓊々杵尊は、
八坂瓊曲玉、八咫鏡、
天叢雲剣の三種神器を
御身にそえさせられ、
祭祀の神天兒屋根命、
太玉命、天鈿命、鏡造り
を職とされる石凝姥命、
玉造りを業とせられる
玉屋命の五部の神々を始め、
八百万の神々を随えさせられ、
大空に漲る八重の雲路を
はるばると高天原から
瑞穂の国へ降臨ましました
のである。》
『国ヲ肇ムルコト宏遠ニ』
は、即ち、我が国を肇める
には我が国が広大に
(宏)になるように、
我が国が永遠、(遠)に
隆ますようにお定めに
なったと謹釈し奉るので
あるが
何と気高い美しい神話
ではないか。
此の神話によって
謹写した天孫降臨の図で、
此の図を拝していると、
日本開国の広大且つ悠久
の様が偲ばれて、自から
粛然たるものがある。》
という風に説明されている。
天孫瓊々杵尊は降臨後
日向の高千穂の宮に
おいでになって国土を
お治めになったが、
御代は彦火々出見尊、
草葺不合尊を経て
神倭伊波礼毘古尊になった。
然し、東に方って互に
勢力を張る賤奴等が
あって国土は必ずしも
平和に統一したとは
云われないので、
神倭伊波礼毘古尊は
御兄尊の五瀬尊と
御相談の上、
国土統治の最適地を
お探しになる為め皇軍を
率いて高千穂の宮を
御出発になった。
歴史に見える
神武天皇御東征は
このことであって、
旋て其所に六年彼所に
五年という御滞在の上
今の近畿地方当時の
大和地方へ御到着になり、
遂に其の地方をお平定に
なって橿原に都を奠め
させられ、
始めて御即位の礼を
お挙げになった。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

