どうも村田です

戦国時代に出た
一条兼良が将軍
足利義尚(よしひさ)
のために著した
『樵談治要』に
「我が国は神国である。
(中略)君臣上下すべて
の者に、神の子でない
者はない。」
とあることを紹介し、
豊臣秀吉が天正十九年
七月、インド副王、
すなわちポルトガル領
インドのゴア総督に
宛てた書状で
「そもそも我が国は
神国である」
と書き出していること、
さらに、徳川家康が
慶長十七年六月に
ノヴィイスパニア国主
に与えた返書にも
「そもそも我が国は
神国である」と記され、
翌慶長十八年十二月に
出されたキリスト教
禁制の文書にも、
「そもそも日本は、
もとより神国である」
とあることを記して
います。
さらに、徳川時代に
おいて、徳川幕府の
官学の祖とされる
林羅山の
『本朝神社考』の序文に
「そもそも本朝は
神国である」とあること、
また、
山崎闇斎が、一方では
朱子学の大学者として
学派を開き、他方で
垂加神道を唱えた人物
であり、熱心な日本主義
の尊奉者で、
その流れを継いだ学者の
中から多くの国体論者が
現れ、彼らの
国体論がいずれも
神国観と神道に基づいて
築かれたことを述べています。
さらに、垂加神道の系統
を受けた国体論の中で
最もすばらしいものとして、
水戸学に言及し、
「水戸学は、我が国に
おける国体論の最高峰で
あり、
儒学と国史の精神を結んで
一体とした学問であった。
その国体論を根拠とし、
国民精神を強調した点に
おいても、水戸学に勝る
ものはないと言っても過言
ではないほどである」
と述べています。
そして、それを体現した
人物として、徳川斉昭や
会沢正志斎を挙げています。
自国尊重の精神を発揚
した点において、水戸学者
に勝るとも劣らない存在と
して、
復古神道を唱えた
平田篤胤をあげ、彼の
学統を継いで明治維新後に
「神祇官の復活を実現させた」
人物として、矢野玄道や
大国隆正らの名前を挙げて
います。
三 国家の理想
第三章では、神道と
国家理想との関係が
語られています。
ここで彼が国家理想だと
考えているのは、
天照大神が地上に降っていく
孫の瓊瓊杵尊に与えた
「天壌無窮の神勅」
です。
そして、この神勅から、
「仁政主義」、すなわち、
国民を慈しむ
天皇統治の原則が生れ、
それを核として、日本は
異文化を吸収しつつ、
生々発展し、それがまた、
神に守られているという
国民的自信を深めることに
なったというのです。
「我が国における国家と
しての理想はどこにあるのか。
それは建国当初すでに
定められており、
その理想は三千年の歴史
を通じて国民の活動の基準
となり、
国民文化発展の基礎と
なってきた。そして
我が国においては、
この理想は皇祖の神明に
よって定められたことに
なっている。ゆえに、
神祇を尊ぶ国民の信仰や、
その後発展してきた
神道哲学とは、とうてい
切り離すことのできない
関係を持っているのである。
これを具体的に言えば、
第一に天壌無窮の神勅で
ある。」
それを口語訳すると
次のようです。
葦原千五百秋の瑞穂国
〔日本〕は、我が子孫が
王となるべき地である。
ゆえに、皇孫よ、
あなたが行って治めなさい。
宝祚〔皇位〕の隆盛は、
天地と共に
限りなく続であろう。
「この神勅こそが、日本
の永遠の国是であり、
国家としての理想である」
「我が国の根本義である
皇統万世一系の基本を
定めたものであり、
その後も君位は連綿として
一系に続き、いまだかつて
革命のない、
世界にただ一大事実を
生んだのである。この事
こそ、まさに
建国当初に皇祖の神々が
定めた理想であり、その
理想が現実となって今日
に及んでいるのである。」
「皇孫よ、あなたが治め
なさい。とあるのは、
すでに多くの学者が論じ
尽したように、
我が国の政治的理想を
示されたものである。
そして歴代の天皇が国民
を治められるに当たり、
覇道を退けて常に王道を
行い、言い換えれば
一貫して仁政をもって
国を治められたのは、
この「しらす」
「治める=統治する」の意
の政治を理想とされた
皇祖の遺教によるものである。
古語において
「しらす」と「うしはく」
「所有する=領有する」の意
とは厳密に区別して用いられ、
天子の政治については必ず
「しらす」という語が
用いられ、決して
「うしはく」とは言われ
なかったことについては、
先人がすでに論じ尽くして
いるので、
ここに余計な説明を加える
必要はあるまいと思う。
この仁政主義こそ、
まさしく我が国の政治の
理想であり、同時にまた
神道の根本義の一つでもある」
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

