どうも村田です

清原の「国体論」は、
明らかにこの思潮を
捉えてのものだった
と考えられます。
この「家族国家論」が
盛んになった背景には、
日清戦争以後の日本の
産業の発展によって、
農家の次男、三男が
都会へ出て結婚することで、
多くの分家が生れ、
その本家と分家との関係で、
天皇と国民との関係を説明
することが、
多くの国民にとって
受け入れられ安い
社会環境が生れたからだ
と言われています。
清原の場合は、さらに
彼の『大日本史』に
対する高い評価が根底に
あるようですが、
これについては
『神道と日本文化』
の解説の後で話します。
『国体論史』
で清原が語った国体観の
説明の最後に、彼の議論
の当時における
影響力の大きさについて
話したいと思います。
明治10 年に創設された、
陸軍の将校(士官)たち
の親睦・学術団体で、
偕行社という団体が
ありました。そこが
出していた機関誌を
『偕行社記事』といいます。
内容は、単なる社内報の
枠を超え、当時の最先端
の軍事技術や戦略、
戦争から得た教訓などが
詰め込まれ、
「日本陸軍の知の集積地」
とも言える資料です。
この『偕行社記事』
の大正13年4月号に、
南雲親一郎という少佐が
書いた
「我が国体について」
と題する文章が掲載
されています。
この南雲の論文の冒頭には、
「本作業は南雲歩兵少佐が
当校中隊長として生徒に
対して講和したる事項に
若干の補修を加へたる
ものにして青年将校の
参考に供する為
偕行社記事に掲載を
請ふ事とせり」との
「陸軍士官学校本科長
真崎[甚三郎]少将」
による説明文が付されて
います。
真崎と言えば、
荒木貞夫とともに
皇道派の頭目の一人と
して、青年将校の衆望を
集めた人物です。
その真崎がわざわざ
推薦するほどの内容だった
ということです。
この文章の中で、南雲は、
著名な国体論をいくつか
提示した後、
最後の部分で次のように
書いています。
「国民をして之を了解
せしめ、之を信ぜしめん
と欲するにある以上は、
国民が殆ど常識として
有する所の科学的知識に
抵触せざる理論の上に
立たざる可らず、
皇統連綿万世一系を説く
如きは最も良し、
然れども諾冉二神が始めて
虚空の内に世界を作成
したるを如実的に説きて、
かかるが故に人民は
素より一木一草に
至るまで其御子孫たる
皇室の私有なりと
説くは如何にや、
之れ我国の神話なり、
神話は其国民の理想、
精神として最も尊重
すべし、
只それ尊重すべきのみ、
之を根拠とし我国体の
尊厳を説かんと欲するは
危し、
先入主として之等の
「国造り説」
と相容れざる進化学上
の知識を
注入せられ居る国民は
或は之を信ずる事を
得ざるが故なり」
「神勅が史實なるにも
せよ、神話即ち民族的
理想の表明なるにもせよ、
我社會的事實に変る
事なく、我國體論に
於ては動くことなき
信念を有す」
もうお分かりだと
思いますが、これは
『国体論史』
の清原の文からの引用
です。
これを結論とする
「国体論」
が陸軍士官学校で
講義され、
青年将校の参考に供する
ために、皇道派の陸軍
少将の推薦文まで
つけられて、
陸軍の機関誌に載せられ
ているのです。
このような
「国体論」
が陸軍の機関誌に
載せられた背景には、
当時の陸軍が
「大正デモクラシー」
の中にあって、
「陸軍がその正統性の
根拠を天皇のみならず
国民にも求めようと
していた」
ことがありました。
この辺のことを詳しく
お知りになりたい方は、
東京女子大学名誉教授
・前軍事史学会会長の
黒沢文貴が書いた
『大戦間期の日本陸軍』
(みすず書房)をお読み
下さい。
これから大正15年6月に
刊行された
『神道と日本文化』
の解説をはじめます。
本を開くと「小序」と
題して、清原が本書を
書いた目的が述べられ
ています。
それによれば、神道が
日本文化に対して
どのような関係にあるの
かについて
書かれたものの内容は
空疎で、抽象的なものが
多いようなので、
できるだけ「具体的に」
「公平かつ客観的に」
説明したいというのです。
そして、神道という
問題に初めて触れる
読者のために、
付録として巻末に
「神道史概説」
を載せたと書いています。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

