どうも村田です

明治44年(1911)年、
当時、伊勢神宮では、
完備した歴史書を
編纂するために
「大神宮史」
の編纂事業を始めて
いましたが、
その編集を担当する
ために、大学院在学の
まま、伊勢に赴任し、
3年間、伊勢でこの
業務に専念します。
大正3年(1914)、
神宮司庁大神宮史
編修嘱託を辞して、
京都に帰り、
大学院を退学して、
京都帝国大学図書館
の司書となります。
そして、大正8年、
内務省神社局嘱託と
なって、東京へ移住
しました。
その直後に出版した
のが、彼の処女作で
ある
『神道沿革史』
(大正8年6月)で、
若干29歳でした。
それまでの神道に
関する研究は、
神や神社の信仰の
歴史を描く
「神祇史」
か、神道についての
教説を扱った
「神道哲学史」
しかありません
でした。
それに対して、
本書は、国民の神道に
対する考え方、
思想の変遷を主として、
原始信仰から外来
思想信仰の流入及び
影響、
さらに神祇に関する
制度、民俗、神道説
発生後の各流派の
学説等を、
「神道史」
という枠組みで
系統的に記述した
最初の研究だと
言われています。
この本の特徴を
二つだけ言います。
一つは、
「原始神道」
から発展した
「固有神道」
においては
「祖先崇拝」が
特別な地位にあり、
具体的には、
天照大神に対する
国民的信仰が重要で
あったと述べている
ことです。
清原の神道説では、
この「祖先崇拝」
が特に重要なのですが、
それについては、
後で改めて説明します。
もう一つは、
神道と仏教との関係、
「本地垂迹説」、
神仏習合について
力を入れて書いている
ことです。
神仏習合に対して、
ほとんどの人々が
否定的だった当時に
あって、
その肯定的な面にも
目を向けようとして
います。
さて、清原の
内務省神社局嘱託就任
については、
その後の彼の言説を
理解する上で大切なので、
少し詳しく説明します。
当時、第一次世界大戦の
結果、ロシアでは帝政が
倒れて
社会主義国が出現
(大正6年11月)し、
ドイツとオーストリア・
ハンガリーにおいても
帝政が崩壊して共和国に
移行(大正7年11月)
しました。
このように、欧州で次々と
君主制が消滅していった
ために、
この状況が日本の
国内思想に深刻な影響を
与えるのではないかとの
憂慮が生れました。
大正6年9月、寺内正毅内閣
は、明治中期以来懸案と
なっていた学校制度の
改革問題を解決するために、
総理大臣直属の
諮問機関として
「臨時教育会議」を
設置しました
(大正8年5月まで)。
ここに集った委員から、
欧州での君主制崩壊の
影響を日本が受けない
ように、
「国体ノ本義ヲ明徴」
すなわち、天皇を中心と
した日本の国柄の重要性
を明確にする
施策を政府に求める
建議書が提出されました。
この要請を受けて、
内務省神社局は、国民の
国体に関する理解を徹底
するために、
主に江戸時代から
大正時代までの様々な
「国体論」
を集めた
資料集を作成し、国民の
教育に当たる教師や
神職に配布することに
しました。
清原はその編纂に従事する
ために、内務省神社局に
嘱託として雇われたのです。
その成果は
『国体論史』
と題して大正10年1月に
内務省神社局から刊行され
ました。
清原は、この資料集を編纂
しただけでなく、最後に
「餘論」と題して、
「国体論」に関する自らの
考えを纏めた文章を載せて
います。
この文書は、大正10年
当時の「国体論」を
めぐる社会的風潮を知る
上で極めて重要な文書です。
先に、清原は再び注目
されるようになってきたと、
いいましたが、
これを指摘したのが
私なのです。この点に
ついては、清原の経歴と
業績の説明を終えた後で、
改めて説明します。
大正9年、清原は
日本大学講師に就任して、
神道史並びに国民思想史を
担当しました。
そして、大正11年、
広島高等師範学校教授と
なって広島に赴任します。
師範学校は戦前、
教師を専門に養成した
学校です。
赴任は37歳のとき
で所属は徳育専攻科で、
修身―道徳―担当でした。
この広島高等師範学校
在任中の大正14年6月、
700頁を超える大著
『日本国民思想史』
を出版します。
徳育専攻科で修身担当の
教官として、
「国民思想の指導」
に当たる教員を養成する
ために書いたものでした。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

