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ということなんじゃ

どうも村田です

教育勅語の中に

書かれている

天皇の署名部分に

お辞儀をするという

儀礼だったのだ。

これは全然神道儀礼

でも何でもないわけ

なのだ。

内村はそれで

「そこに礼拝してください」

というふうに言われた

ので、

その礼拝という言葉に

戸惑ってしまって

少しだけ頭を下げて敬礼

するにとどめたのだ。

それを見た教師、生徒、

一般ジャーナリズムが

騒ぎ出して、

帝国議会でも問題に

なって一校廃止論まで

発展するような大事件に

なってしまったという

ものなのだ。

その後、この事件が

起きた後、校長先生が

内村鑑三に

「お辞儀をするのは、

天皇に対する宗教的な

礼拝ではなくて、単なる

尊敬の表現である」

というふうに説明して、

内村は納得して、もう

1回やり直すのだけれど、

その時、病気になって

しまって、代わりの

キリスト教徒にやって

もらったのだけれど、

それで周りが全然納得

しなくて、彼の罷免を

求める議論が大きく

なりすぎて、

その結果として内村の

知らないところで

辞職願が代筆されて、

自分から辞めたという

形にさせられてしまった

というのがこの事件なのだ。

この事件の理解のポイント

だけれど、まず1つ、

「教育勅語に対する儀礼

は教頭が考えたもので、

そもそも神道儀礼ではない」

つまり

「神社参拝や信仰の強制

といったものではない」

ということなのだ。

次に、

「教育勅語を宗教的に

礼拝はしないけれども、

敬礼はする」

という考え方は、

当時の井上毅(こわし)

の考え方に照らしても

有賀長男の考えに

照らしても

非常にまっとうな意見

だったわけなのだ。

では、それをどうして

世間は許さなかったのか

ということになるのだ

けれど、

それは敬礼というのと

礼拝というのはキリスト

教徒から見れば違うけれど、

日本人から見れば区別

がないわけなのだ

それをあえて区別

しようとしている

ところに、

「天皇に対する

尊敬心が薄いんだ」

という解釈になって

しまうわけなのだ。

こういう観点から、

実は内村を批判した人は、

キリスト教徒の中にも

いたし、

教育勅語を解説した

井上哲次郎もそういう

立場をとるし、

さらに面白いのは

浄土真宗の島地黙雷が

この観点で内村を批判

していることなのだ。

浄土真宗といえば、

明治の初めに大教院が

できて、

そこに造化三神を祭られて、

そこに礼拝することを良し

とせずに、

信教の自由を守るために

大教院分離運動をやった

人たちなのだ。

その人たちが、

逆に内村を

「礼拝と敬礼を分けるのは

天皇を大事に思っていない

からだ」

というふうに非難する

くらいだったということを

覚えておく必要があるのだ。

あと、大事な点は、

この時、この議論に関して

一切警察とかは動いていない

のだ。

全く自由に議論されている

中で、世間の騒ぎを抑える

ために学校が勝手にやって

しまったということなのだ。

今は考えられないけれど、

大臣がよく憲法改正論

とかということを言った

だけで、

大臣の首が飛んだ時代が

あったのだ。

もしあれを「弾圧事件だ」

というのなら、当時の

大臣は政府によって

弾圧されていた

ということになるのだけれど、

そんなわけはないのだ。

「世間が騒ぐので大臣を

続けられなかった」

というだけの話なのだ。

この事件について、

かつての神社界の理論的

指導者だった

葦津珍彦(うずひこ)

という人が言っている

ことを紹介しておきたい

と思うのだ。

「帝国憲法は、この信教の

自由解釈論争の自由を認める

立場を取った。

社会上の論争は激しかった

が、国家権力は少なくとも

明治大正時代にはその論争

に介入しなかった。

糾弾する者も反論する

ものも、その解釈論は

異なっていても、

いずれも帝国憲法、

教育勅語支持の立場を

明確にしており、

帝国憲法下にある

国家権力としてその

論争に介入する理由が

なかった」

ということなのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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