どうも村田です

第2次近衛内閣
発足の前に近衛は
荻窪にあった
私邸に陸軍大臣予定者、
東條英機と海軍大臣
予定者、吉田善吾と
外務大臣予定者、
松岡洋右を集めて、
これからの日本の
世界戦略というのを
取り決めるわけなのだ。
それが4つあって、
速やかにアジアに
新秩序を作って
ドイツ・イタリアとの
連携を強めるのだ。
ソビエトとは
不可侵条約を結んで
今は戦わないが、いつか
戦える力を準備するのだ。
アジアにおいては、
イギリス、フランス、
オランダ、ポルトガル
の植民地を
新秩序の中に包含する
ということなのだ。
これはどういうことか
というとドイツが
ヨーロッパをほぼ席巻
してしまったので、
アジアにある植民地は
主人がいない状況に今
なっていて、
どこが手をつけるかに
よって状況が全然変わって
しまうので、
そこを日本の影響下に
置いていこうという話
なのだ。
そこで一番対決する
相手はアメリカなのだ
けれど、
そこが非常に難しいと
いうか、強気の言い方を
しながら腰が引けている
わけなのだ。
衝突は避けるけれども、
干渉は排除するという
ようなことを方針として
掲げるわけなのだ。
この方針に基づいて
出されたのが、昭和15年
7月26日の基本国策要綱で、
この要綱に八紘一宇
という考え方が登場して
ブロック勢力圏の確立を
目指す
近衛内閣の外交方針と
いうのは、八紘一宇
という建国の精神に
乗っ取っているのだ
という説明がされる
ようになるのだ。
この基本国策要綱を
公表した記者会見の中で、
松岡洋右は大東亜共栄圏
という言葉を使うのだ。
この構想のもとに
9月27日に日独伊
三国同盟が出来上がるのだ。
この日独伊三国同盟締結
の証書に何と書かれたか
というと、
「大義ヲ八紘ニ宣揚シ
坤輿ヲ一宇タラシムルハ
実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ
朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ」
つまりこのドイツ・イタリア
との同盟は建国の精神、
八紘一宇に従っているの
ですよというふうに説明される
ようになるわけなのだ。
それで、この外交方針を
説明するために、
文部省教学局が作ったのが
『臣民の道』という本で、
ドイツ・イタリアとの同盟
によって
アジアにブロック勢力圏
を確立する外交方針を
肇国(ちょうこく)の精神、
建国の精神を根拠として
国民に説明するために
この本を作るのだ。
その結果、この本ができて
昭和17年以降の小学校の
教科書にこの八紘一宇
という言葉が載ってくると、
こういうことになるのだ。
ここまで、
現人神(あらひとがみ)論
と八紘一宇論がなぜ有力化
してきたかといういきさつを
簡単にもうまとめ直すと、
現人神(あらひとがみ)論
というのは、共産新思想に
対抗するために
天皇崇拝を絶対的なものに
高めなければならないという
必要があって、
それがもともと
現人神(あらひとがみ)論
を強く抱いていた軍部に
総力戦思想が広まって、
その後軍部の政治や教育
への介入を歓迎するような
状況が生まれたのだ。
そして最後は戦争末期に
なって、神頼みを必要と
するほど、
日本の戦争の状況が悪化して
しまって、首相がそういう
話を国民に語りかけると
いうようなことになったのだ。
八紘一宇については、
ドイツとの同盟を後ろ盾
としてブロック勢力圏を
アジアに建設するという
外交方針がまず決定された
のだ。
その結果として、それを
建国の精神に基づいて
説明するために八紘一宇
という、
田中智學の考え方が
引っ張ってこられたと
こういうことになるわけ
なのだ。
それでは、そういう
いきさつなのに何で
明治の時からずっと
そういうことが、
村上重良がそう思い込んだ
にせよ、何でそういう幻想が
生まれて、
今までその誤解を
解けなかったのかという
ことも少し考えておく
必要があるのだ。
それは昭和の初期に、
マルクス主義への対抗
としての役割を国体論に
期待されることになった
のだけれど、
そのような役割をきちんと
担っていこうという試みの
中から、
天皇絶対神論や日本に
よる世界支配の思想、
それこそが明治維新の
精神であり、
さらにさかのぼって
日本の建国精神そのもの
であったという物言いが、
解釈が支持を広げていくのだ。
これは新しい思想の
出発点を遠い過去の中に
見出して、
それこそが伝統なのだと
主張することによって、
「今生まれた考えです」
と言うのと、
「古くからそう
思っていたのです」
というのは説得力が
違うのだ。
今の考えを古きに根拠
付け直すことによって
正当化しようとする
やり方で、
今の言葉でいうと伝統の
創出というのだけれど、
そういう考え方が力を
持ってくるのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

