どうも村田です

神話を根拠にして
国体を説くことは
危険だと言っている
のだ。
それを内務省神社局
が出しているのだ。
レベルは違うけれど、
今神社本庁が
「神話を根拠に
天皇陛下の尊厳を説く
ことは危険です」と
言っているような、
「ええ?」みたいな
話なのだ。
さらにこんなふうにも
言っているのだ。
「あるいは天孫降臨の
進捗によりて、国体は
定まるとするものをし、
しかれども誤れり」
天照大神
(あまてらすおおみかみ)
が下した天壌無窮
(てんじょうむきゅう)
の神勅なのだ。
それによって日本の国柄
は定まったのだという
ことが多いけれど、
それは違う、間違いだと
言っているのだ。
「神勅の有無にかかわらず、
わが国家の社会的成員が
わが万世一系の皇位を肯定し、
それを否認するものなり。
神勅はただその事実を
表明するものに過ぎず、
わが神代史私は歴史と
神話と相半ばするに至り、
あるいは神話の神勅を
もって一の神話にして
国民の理想を表面すれど、
歴史事実にはあらずと
思考するものあり。
しかれどもわが国体論に
おいては
神話が新事実なるとは、
はたまた神話なるとは
根本問題にあらず。
神勅が史実になるにもせよ、
神話すなわち民族的理想の
表現になるにもせよ、
わが社会的事実に代わる
ことなく、わが国体論に
おいて止むことなきなり」
なのだ。
「天壌無窮
(てんじょうむきゅう)
の神勅によって国体が
定まるという考え方は
誤っている」と、
では何によって定まった
かというと
「社会的事実だ」
と言っているのだ。
つまり歴史的事実、
歴史的な国民と天皇との
関わりによりそれは
決まっているのだという、
井上毅(こわし)
と同じ考え方なのだ。
これはいわゆる
「人間宣言」
に書かれていることと、
実は同じなのだ。
「人間宣言」
と言われるものが何と
言っていたかというと、
「朕ト爾等国民トノ間ノ
紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト
敬愛トニ依リテ結バレ、
単ナル神話ト伝説トニ
依リテ生ゼルモノニ非ズ。」
なのだ。
「天皇ヲ以テ現御神トシ、
且日本国民ヲ以テ他ノ民族
ニ優越セル民族ニシテ、
延テ世界ヲ支配スベキ
運命ヲ有ストノ架空ナル
観念ニ基クモノニモ非ズ。」
では何に基づいているか
というと、終始相互の信頼
と敬愛とによってと、
同じことを言っているでは
ないか。
「人間宣言」
などはもう大正に
出ているのだ。
それが全然問題にも
ならないし、こんなこと
が出たということ自身が
今の歴史から忘れされて
いるほど、
大正時代というのは
そういう時代だったのだ。
それを僕らは知る必要が
あるのだ。
さらにこの中で清原は
天皇主権論も批判していて、
「国家は天皇御一人の利益の
ために存在し、活動する
ものなり」とする
天皇主権説を批判して、
「冷ややかなる法理に
よりて天皇を神聖視する事
を規制せんとす、
いわゆる贔屓の引き倒しに
して、下は国民の皇室に
対する忠義の熱情に水を注ぎ、
上は御歴代の聖徳を無に
せんとするものなり。」
天皇陛下は何でも自分で
言う通りにできるのだと
いうようなことはひいきの
引き倒しだと、そこまで批判
してしまっているわけなのだ。
だからもう神話も天皇主権説
も公然と批判されていたわけ
なのだ。
しかも、内務省が思想善導
のために作った資料集に
おいてもなのだ。
さらに人類学者の鳥居龍蔵も、
「今や国民の知識は一般に
進歩して、
もはや神話伝説などを
うのみにして、そのまま
信ずるようなことは
なくなっている」
というふうに書いていて、
確かに学校の教科書に
神話は載っていたけれど、
国民はそれをそのまま
信じていたわけではない
わけなのだ。
それでは天皇絶対論、
絶対神論が生まれて
きた時代、
あるいはその後の時代と
いうのはこういう時代
なのだ。
ではなぜ今言われている
ように天皇絶対論と
いうのは表に出てきたのか。
そして何でその公の文書
が出てくるようになった
のかということを、
やはり次に考えて
いかなければいけない
わけなのだ。
これについては、
宗教の世界以外に
3つの思想
というのを考えて
おかなければいけないのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

