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どっちじゃ

どうも村田です

ある種のカリスマ性、

そこに寄っていかない

と私たちの中心が

作れないと思うのだ。

その作れないと思った

伊藤博文が憲法を書く

わけなのだ。

その憲法の第1条と

第3条は有名で

こう言っているのだ。

「大日本帝国ハ万世

一系ノ天皇之ヲ統治ス」、

つまり万世一系は

水戸学の言葉なのだ。

万世一系という言葉を

入れだすことになり

それと同時に

第3条

「天皇ハ神聖ニシテ

侵スヘカラス」

と書くのだ。

この神聖にして、

つまり宗教性の問題が

入ってくるわけなのだ。

だけれど重要なのは、

では憲法を実地に、

国民国家を作る時に

この憲法を広げようと

いった時に出てくる

のが教育勅語なのだ。

見たら分かるように

1年後でその時に実は

葛藤があるのだ。

簡単に申しあげると、

教育勅語はこうなのだ。

道徳の根源を天とか神に

求めていたのが中村正直案

というふうに言われている

のだ。

中村正直というのは、

敬天愛人みたいな

ことを言う人で、

この人自身が陽明学から

キリスト教に行って、

そして西洋的な教養を

持っている人だったのだ。

その人が

「教育勅語を書け」

というふうなお達しが

あって

彼自身が書いたのだが、

彼が書いた教育勅語は

非常に宗教性が強いのだ。

天から導かれている、

つまり天皇というのは

天で形而上学的、宗教的

なのだ。

それを見た時に、この

井上毅(こわし)、

この人間が、

元田永孚(ながざね)

という人もいるのだが、

主に井上毅(こわし)が、

宗教性の強い中村正直案

を見て、

「これはまずくないか?」

となったのだ。

なぜかというと簡単で、

天皇を超える超越的な

価値があるとしたら、

天皇が間違ったことを

しているといった瞬間に、

これは革命の原因になる

のだ。

この流れは

プロテスタントに

似ているのだ。

そうすると世俗的な

この秩序みたいなもの

を認めないということ

になるとまずいから、

この教育勅語を

できるだけ宗教性と

超越性を抑圧した形での

井上毅(こわし)

の案が採用されること

になるわけなのだ。

彼は何を言ったか

というと、

「伝統的な孝悌忠信ノ徳行」

と、近代的な

「共同愛国ノ義心」、

これを折衷するのだ

という形で臣民の道を

明示するのだ。

これは言葉で言っても

ピンとこないと思うので、

軽く解説するのだ。

この教育勅語に対して

説をしたのが

井上哲次郎という東大の

哲学の先生なのだ。

この哲学の先生が

『勅語衍義(えんぎ)』

というものを出すのだが、

その

『勅語衍義(えんぎ)』

に対して直接影響を

与えていたのが

西村茂樹の

『日本道徳論』

だと普通は言われる

のだ。

こんなマニアックな

話をなぜしているか

というと、

『日本道徳論』

が非常に分かりやすい

からなのだ。

見たら分かるのだが、

こういうこと言って

いるのだ。

「この世界、あるいは

日本の中には世外教と

世教という2つのもの

がある」

と言うのだ。

世外教は

「世界の外」

という字を書き

世界の外の教えと、

もう1つは世教、

世界の中の教えと

2つあるのだ

今から日本が近代化

する時に、世外教を

取るのか、

世教を取るのか、

どちらなのかという

問いを西原茂樹は

この中でやっているのだ。

世外教も簡単に言うと

世の中の外だから形而上学、

超越的なものなのだ。

世外教は誰が言って

いるかと、2つだと

言うのだ。

世外教はキリスト教と

仏教だと言うのだ。

キリスト教は分かり

やすいのだ。

世界を超越する

一神教で仏教も

そうなのだ。

世俗を捨てろと言う

のだ。

だから世俗の外に

行こうとするのだ。

しかし世外教を持って

しまうと、天や神が

出てきてしまって危ない

ので、

世外教は取るべきでは

ないと言うのだ。

むしろ世教によって

世間、あるいは社会を

秩序付けるべきだ

というのが西村茂樹

の結論なのだ。

では世教は何か

というと、世教は

2つあるのだ。

儒教ともう1つが

西洋哲学なのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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