どうも村田です

『孟子』において
「文王を待ちて而かる
後に興者は凡民なり。
夫の豪傑の士の如きは
文王なしと雖も猶ほ興る」
との言葉がある。
これは、文王という
偉大な王が現れて天下が
泰平となったときに、
はじめて動き出す者は
凡人に過ぎず、真の豪傑
とは、
たとえ文王のような指導者
がいなかったとしても、
自ら立ち上がる者である
という趣旨である。
孟子はこのように述べ、
真に勇気ある者の姿勢を
説いているのだ。
これは歴史的に常に
起こり得る現象であると
孟子は述べているが、
現に南部からは
立ち上がる者が存在して
おり、
まさに豪傑の士の姿が
そこにあるといえるのだ。
したがって、時代はすでに
動き始めており、自らは
むしろそのような正の側面に
注目すべきであると考える
ものであるのだ。
日本においても、
1990年代に歴史教科書論争
が発生し、
それ以降、日本という国は
極めて否定的なイメージに
覆われ、
国全体が底を打ったような
印象を与えたのだ。
しかし、あれから三十年の
歳月が流れ、当時のイメージ
をそのまま信じる者は大きく
減少しているのだ。
むしろ、これまで保守政党と
見なされていた自民党ですら、
その保守性が問われる時代に
入っているのだ。
このようにみると、凡庸な
民のみならず、これからは
豪傑の士が現れる可能性が高く、
日本的人間も再び姿を現す
であろうと期待されるのだ。
したがって、そうした
変化の時代を共に楽しみつつ、
見守っていきたいと考える
次第であるのだ。
日本的人間とは何かという
問いが、ひとつの大きな
テーマとして取り上げられた
のだ。
あらためてこの問いに
向き合うための手がかりとして、
山中峯太郎氏の著作があると
考えるのだ。
この書を手に取り、ページを
めくるたびに、
「日本的人間とは
いったい誰なのか」
という問いに立ち返る機会を
得たのだ。
だが、その答えは書物の
なかに描かれる人物のみに
求めるべきではないのだ。
日本的人間とは、文化という
土壌から自然と育まれた存在
であり、
また同時に、今まさに
この時代を生きる人びと
のなかにも息づいている
存在でもあるのだ。
すなわち、それは過去の記憶
にとどまらず、現在に生きる
われわれのなかにも確かに
存在しているものであるのだ。
日本的人間とは何かという
問いに対して、私は深く関心
を抱いているのだ。
日本人は当然ながら日本人
として生まれ育ち、その意味
について、
学生や高齢者を問わず、
多くの人びとが漠然とした
疑問を抱いているように
思われるのだ。
すなわち、この世に生を受け、
日本人として育ってきた
ことに、いったいどのような
意味があるのか。
自らが文化的にどのような
存在であるのか。
こうした問いに対して、
日本的人間という概念の
なかには、
ある程度の答えが見出せる
のではないかと私は考えるのだ。
この書物は、その探求の
きっかけとなり得るもので
あるが、それにとどまらず、
人生を通じて、あるいは命を
懸けて、
「日本的人間とは誰なのか」
という根源的な問いに
向き合う契機となればと
願っているのだ。
『日本的人間』
という主題について、
単なる書籍の内容紹介に
とどまらず、その背後に
ある歴史的な流れ、
さらには「日本とは何か」
「日本人とはいかなる民族か」
といった根本的かつ
思想的な視点に立脚した
極めて示唆に富む講義
であったと思うのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

