どうも村田です

このような自己犠牲
の精神の根底には、
強き母の存在があった
のだ。
強い女性という模範が、
個人の精神を育み、
結果として強靭な軍隊を
形成するに至ったのだ。
日本における母性愛の
在り方と、誇り高き
軍隊の成立とは密接に
結びついており、
両者は不可分の関係に
あると認識すべきである
のだ。
まさにその通りで
先ほどから繰り返されて
いるように、結局のところ、
「誰かのために何かを
したい」と願う心こそが、
もっとも強烈な自己主張、
自己表現となるのだ。
それがきちんと実現されている
という点において、本質的な
人間の尊さが示されている
のだ。
加えて、それは
「自分のため」
「自分さえ良ければよい」
といった、
いわばダーウィニズム的な
生存競争とは正反対の価値観
であるのだ。
欲望のために他者から奪う
という獣的なあり方とは異なり、
むしろ人のために尽くす
という行為こそが、
もっとも人間らしい自己表現
であり、
それによって真の人格が
形づくられるという点が
重要であるのだ。
本件はまさに、そのような
精神の在り方を示す象徴的
な話と受け取ったのだ。
母性愛や育成の在り方とも
深く関係しており、とりわけ
「自らの責任を果たすこと」
や「社会のなかで果たすべき
役割を全うすること」
の重要性を教示する場面が
数多く見受けられたために、
本箇所では、いくつかの
内容を取り上げることと
したのだ。
こうした要素をできる限り
整理・抽出し、ひとつの
まとまりとして提示する
ことにより、
より明確な主題として提示
できると考え、今回の構成に
至ったものであるのだ。
例えば「一世一代」
に見られるように、
「今日を最後と観念して生きる」
という姿勢は、まさに
禅的精神の表れであるのだ。
すなわち、明日のことを
過度に案じることなく、
今日やるべき務めを全うする
ことで、
社会全体が円滑に機能する
という考え方であるのだ。
これは極めて日本的な
思想といえるのだ。
また、「一日暮らし」
においては、大阪の医師・
北山寿安が
「一日に最善を尽くす」
ことの意義を説いているのだ。
大規模な構想や計画がなくとも、
一人ひとりが自らの責任を
誠実に果たすことで、
社会は円滑に回るという
思想もまた、日本的精神の
体現であるといえるのだ。
「奇答」
においては、徳川光圀の
逸話が取り上げられている
のだ。
光圀は常陸水戸藩の大名で
あり、徳川家康の孫にあたる
人物であるのだ。
この章に込められた精神は、
単に己の責任を果たすに
とどまらず、
父祖をも超える覚悟を持ち、
先祖の期待を上回るような
行動を自らに課すという点に
あるのだ。
そのような生き方は、
自己の立場を超えて歴史的
使命感を背負い、
個人を超えた責任を意識する
という意味において、日本的
倫理観のひとつの核心を成して
いるといえるのだ。
「下地」では、
才能に依存せず、しっかり
とした準備と日々の努力を
重ねることが何度も強調
されているのだ。
この考え方は、とくに
欧米文化と対照的である
と感じられるのだ。
例えば、アメリカなどでは
自己主張をしたり
(自分は)「天才である」
「偉い」といばるような
文化が見受けられるのだ。
日本の文化では、
そのような自我に依存せず、
地道な準備と努力を積み
重ねることが重要視されている
のだ。
つまり、毎日の努力を
惜しまず、確実に準備を
整えていくことが、
成功への鍵であるという
教訓が示されているのだ。
「本分」に示されるように
「本分は自分の責任」
という考え方について、
弓術家の吉田大蔵が示した
姿勢が重要であるのだ。
彼は、サムライの技を
パフォーマンスとして披露
することをやめ、
君主や国家のために活動
することの大切さを強調
したのだ。
この姿勢は、現代の
日本社会と対照的である
と言えるのだ。
今日では、
「目立ちたい、他人の
目に映りたい」
という欲求が強くなって
いるが、
その背景にはアメリカ化が
影響していると考えられる
のだ。
当時は、個々人が自分の
役割や責任を果たすことが
重要視され、
目立つことやパフォーマンス
を避ける姿勢が重視されていた
のだ。
「(私はこういう人間です
…という)自身の責任を
全うするために、
私は必要なときに動きます」
というスタンスが大切であり、
単なるパフォーマンスに
過ぎない行動は
「お断りします」という
姿勢が重要であったのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる


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