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思われたんじゃ

どうも村田です

たまたまこの時、

松岡外務大臣は3月

からイタリア、

ドイツ、ソ連に出張

していて、帰国は

4月22日という予定で

あったのだ。

近衛は松岡の帰国を

急がせたのだが、松岡が

ちょうど満州に到着した

ころに、

日本のもろもろの機関

でもって満州の大歓迎

を受けて、

それにすっかり有頂天

になってしまって、

「早く帰るわけには

いかない。満州に

いろんな用事があるんだ」

ということを理由にして、

予定通り4月22日に

立川の飛行場に到着

するのだ。

この時は、さすがに

近衛は松岡の気質という

ものをよく知っていたの

だろう。

まず自分が出向いて

いって松岡を迎えて、

そして

「実は日米交渉がこういう

形で始まっているけれど、

これを松岡の力で何とか

成立させてくれないか」

という説得のために

松岡を迎えに行くのだ。

それも公になる前に

たった2人で、1対1

でもって車の中で

話そうと思って、

まず車を手配するのだ。

ところが、この時もう

松岡は近衛の内談に

応ずる気配が全くない

のだ。

「ああ、そのことなら

帰ってから正式の席で

聞くから」

というようなことを

言ったのだ。

統帥部というのは陸軍、

海軍だが、一応その晩に

開かれた統帥部と政府

との連絡会議の席上に、

松岡も帰国したその夜に

とにかく出てきて、その

報告を受けるわけなのだ。

しかし、松岡はこの

日米諒解(りょうかい)

案を真っ向から否定して

しまうのだ。

「それはアメリカの

日本たぶらかしの作戦だ。

こんな話に乗っては

ドイツやイタリアとの

同盟の信義を蹂躙する

ことになる」

と言って、断固

はねつけるのだ。

「この時、松岡の勘は

半分以上当たって

いたんじゃないか」

と思うけれど、

こういう観察もあるのだ

それは、松岡という人は

外務大臣である自分を

よそに置いて、

自分の留守中に日米

交渉のきっかけを

つくるというのは、

外務大臣の自分の存在

を無視したやり方である

というメンツから怒った

のではないかという

観測もあるのだ。

あるいは、松岡は

「アメリカ人のやる

ことなら何でも分かる」

というアメリカ通を自負

しており、まともに彼ら

の下心を見抜いたという

自信があったのかもしれない

のだ。

とにかく

「こんな話は急ぐな。

放っておけ」

と言わんばかりの松岡の

否定的な態度により、

この諒解(りょうかい)

案はついに真剣に検討

される機会を得られぬ

ままに葬り去られて

しまうのだ。

昭和天皇は、この日

米諒解(りょうかい)

案の検討に関する

松岡のネグレクトを

非常に心配されて、

「外務大臣を交代させる

ことはできないか」

と近衛に仰せになった

ようなのだ。

そして、後年の

昭和天皇の回想録

の中でも、

「日米交渉をつぶして

しまった責任は松岡に

あった」

というお怒りの記憶を

漏らされているのだ。

しかし、時の日本の

内閣総理大臣には、

自分の意向1つでもって

大臣を交代させる権限は

ないのだ。

言ってみれば、松岡の

ネグレクトのまま、

日米交渉案は棚ざらしに

なってしまっている

という形になるのだ。

ところで、昭和16年の

6月22日のことだが、

独ソ戦が始まるのだ。

つまり、ドイツがソ連に

対する攻撃を開始するのだ。

その日の夕方、松岡は

参内して、昭和天皇に

「ドイツを支援する形で兵

を起こし、ソ連を討つべし」

ということを上奏するのだ。

天皇は非常に驚かれるのだ。

外務大臣として天皇に

「ソ連に対する戦争を

こちらから開始せよ」

と言うのは、

「松岡というのは何と

いうことを言う男だ」

ということで驚かれた

だろう。

結果として、7月2日だが、

召集された御前会議の

席上で、

松岡の対ソ開戦案という

のは否決されるのだ。

そして、その代わりに

という形で、

「やはりこれまでと

同じように南方の進出を

図るべきである」

という国策が決まる

わけなのだ。

日米交渉の方は、

元来海軍大将の

野村吉三郎さんなのだ。

この人を駐米大使に

起用したという点で、

「もし日米交渉を続ける

ならば、野村を起用して

アメリカに派遣しておく

のがよかろう」

というのが一応

松岡外務大臣の意向

ではあったのだ。

野村という人は、

ルーズベルト大統領と

個人的な交友関係が

あったそうであるし、

その人脈も広いと

思われていたわけ

なのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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