どうも村田です
高さは100メーター
以上のすごい神殿が
宍道湖の西側、
出雲の地に建てられる
ことになるのだ。
普通なら、すごく長い
階段を登って、正面が
大国主命
(おおくにぬしのみこと)
になるはずなのだが、
何と正面には大国主命
(おおくにぬしのみこと)
は存在しなくて、
左に曲がって上に行って、
それからまた今度は右に
曲がって、
そうすると正面から
向かって左の奥に
大国主命
(おおくにぬしのみこと)
が祭られているのだ。
問題は、その途中に
高天原(たかまがはら)
から派遣された5人の
神様が鎮座している
ということで、
それは、その中に
高皇産霊尊
(たかみむすひのみこと)
の名前も入ってきているのだ。
高皇産霊尊
(たかみむすひのみこと)
というのは、
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
と一緒に高天原
(たかまがはら)
を統治した人物で、
その人の名前が出雲大社の
大国主命
(おおくにぬしのみこと)
というか、
魂を永遠にウォッチ
しているというか、
監視しているというか、
その中に天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
と同時代の
高皇産霊尊
(たかみむすひのみこと)
が入っているのだ。
これは非常に注目すべき
ところなのだ。
ということは、
出雲の国は大国主命
(おおくにぬしのみこと)
以降、
現代に至るまで、高天原
(たかまがはら)というか、
天皇家の祖先である
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
と共同統治者の名前が
永遠に続いているように、
現代まで監視されている
というふうに思われるわけ
なのだ。
天之菩卑能命
(あまのほのひのみこと)
というのは、
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
の一応第2子に当たる方で、
出雲の国にとどまり、
出雲国造
(いずものくにのみやつこ)
の祖に当たるということなのだ。
ついでに、現代まで
出雲大社、出雲国造
(いずものくにのみやつこ)
は続いていて、
87代目ぐらいになるのだ。
天皇家が今126代ぐらいだから、
少し代数があれだが、
天皇家の場合は皇位継承の
争いとかいろいろあるから
治世は短いわけなのだ。
出雲の場合は、別に戦乱が
あるわけではないので、
割に長く治世の年代が続いた
のではないかと思うのだ。
87代というのは、現在国造
(くにのみやつこ)はまだ
代を重ねているということを
意味しているのだ。
ちょうど天皇家の年代とも
そんなに変わらないという
ことだから、
日本第二の天皇家に次ぐ
長い家系を現在まで
保っているということで、
改めて天之菩卑能命
(あまのほのひのみこと)、
それから現在の千家、
それから北島家、その
流れも追っていただければ
面白いことになると思うのだ。
それから、出雲大社の
すぐ上の有名な神宮だが、
小野さんの家が100代
続いているということで、
出雲の国も古かった
というふうに思われる
わけなのだ。
それで、出雲の国が
平定したというのが、
『神代記』の上巻に
メインのテーマとして
書かれているのだ。
そして、今度は下巻に
なるのだが、この主題は
「天孫降臨」なのだ。
天孫というのは、
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
の孫に当たる
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
が地上に降りてくる
ということで、ここが
大変重要な
『魏志倭人伝』
にも関係するような話に
なるのだ。
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
が、多分大和から出発して、
瀬戸内海を経由して
高千穂の峰、それから
笠沙の岬に徒歩で行かれて、
それで
木花之佐久夜毘売
(このはなのさくやびめ)
をめとって
そこで長く暮らした
という話になっているのだが、
鹿児島県の薩摩半島の
先端の岬にまで、そんな
悠長な話では全くないはず
なのだ。
本当はどうだったのか
というと、『日本書紀』
にも1章とか2章とか、
ほかの資料も合わせて
いろいろ載せているけれど
瀬戸内海を西に行き、
北九州の博多に那珂川と
御笠川というのがあるのだ
だから、御笠の所まで
行かれたのではないかと
いうふうに思っているのだ。
それで、『日本書紀』
にも『古事記』にも
書いてありませんが、
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
がなぜ九州まで行ったか
というと、
これは『魏志倭人伝』
にも出てくるのだが、
いわゆる邪馬台国の
倭の女王国の南に
狗奴国(くぬこく)
があるのだ。
卑弥弓呼(ひみここ)、
それと重臣に狗古智卑狗
(くこちひこ)というのが
いて、
いわゆる邪馬台国には
属していないのだ。
しかも仲が悪いのだ。
いわゆる卑弥呼の末年
には反乱を起こして、
邪馬台国と狗奴国
(くぬこく)が戦って
いるのだ。
「そこに魏の国が督戦しに
、卑弥呼に旗を下した」
なんてことが書いてあるの
だが、
ちょうど北九州の南に
狗奴国(くぬこく)
があって、
王様の名前が卑弥弓呼
(ひみここ)だから、
本当は火の国、今の
肥後の国、ちょうど
熊本県
熊本というのは勝負の国で、
卑弥呼の時代も中央政権
には反抗していた
というぐらいの国で、
これは西南戦争まで
続くわけだが、
なかなかの猛々しい国
と申すか、熊本城は
今でもありますが、
これは随分昔から
あったのではないかと
思うのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる