どうも村田です
『日本書紀』
が面白い、奥深い
史書でもあるので、
ハイライトで、重要
なところだけをピック
アップしてかくのだ
雄略天皇が457年に
即位されて477年に
崩御という
21~22年間の治世に
ついて、中国の史書
である南宋、
当時倭国では呉という、
呉越同舟の「呉」だが、
『日本書紀』では
呉の国と書いてあるのだ。
ここに2度ばかり
雄略天皇が宋の国に
使いを出していることが
書いてあるのだ。
雄略天皇の重臣で
2人の名前が出ていて、
牟佐村主の青という人と、
それから檜隈民使
(ひのくまのたみのつかい)
の博徳(はかとこ)
という2人の名前が
記されているのだ。
雄略天皇は、8年と12年
に遣使したということが
『日本書紀』に書かれて
いるのだ。
それがずばり中国側の
宋の国の記録に残って
いればいいのだが、
やはり年次が少しずれて
いるわけなのだ。
それもずれているのが
3~4年にしか過ぎない
のだが、
当時倭国の場合、南宋の
暦であった元嘉暦が
入ってきたばかりだから、
それが伝来して、
その年から正確に
元嘉暦に基づいて
というのはあり得ない
話だから、
多少のずれは当然の
ことではないかと思う
のだ。
雄略天皇が使いを出した
のが治世の中で2度、
しかも村主の青というのと、
檜隈民使
(ひのくまのたみのつかい)
の2名が行っているのだ。
しかも帰国まで書いてあり
2回目の使いについては、
帰国に際して呉の人、
南宋からの使いも一緒に
連れてきたというような
ことも書いてあり、
大陸王朝側の史料と
日本側の史料がほぼ
合致するのではないか
と思うのだ。
村主だが、女子の
フィギュアスケートの
有名な方の名前だが、
村主という名前は
全国で結構広がって
いって、
仙台から大和、河内の
方に今でもおられるのだ。
ウィキペディアでは
1,800人ぐらいいるという
話で、今に名前が
伝えられているという
村主さんの話もあるわけだが、
雄略天皇が宋の国に
2度ばかり使いを出してるのだ。
しかも、
『日本書紀』
の中でも画期的な年次に
わたるが、雄略天皇の
即位は457年で、
これはほぼローマ暦、
元嘉暦を通じて、
ローマ歴にも間接的に
つながっているから、
ここからは信用できる
年次ということなのだ。
しかも、今の学説では
倭の五王というのがよく
出てくるが、
その中で一番有名なのは
倭王武なのだ。
倭王武というのは
雄略天皇のことで、
雄略天皇の和風の諱
(いみな)が幼武
(わかたける)といって、
大泊瀬幼武尊
(おおはつせわかたけのみこと)
と言うのだ。
だから、幼武(わかたける)
から武が出てきて、倭の
五王の武に違いないという
ことで、
それは江戸時代から
言われているのだ。
学説的にはつまらない話
だが、今も倭王武は
雄略天皇と言われているのだ。
和風の諡号(しごう)から
すると、幼武尊
(わかたけのみこと)が
雄略天皇なのだ。
しかし、次の世代の
清寧天皇にも「武」
というのが付いているのだ。
白髪武広国押稚
(しらがのたけ
ひろくにおしわか)
という難しい名前だが、
清寧天皇にも「武」
というのがついているのだ。
だから雄略天皇も武だが、
ほとんどの学者たちは
清寧天皇の方の諱(いみな)
を見ることなく、
単純に幼武(わかたける)
だということで、
倭王武は雄略天皇だと
いうことなのだ。
しかし、全然違うのだ。
少なくとも20~30年
違っていて、倭王武
というのは清寧天皇なのだ。
それから、もう1つ
ここで出てくるのが
雄略天皇の治世だが、
『日本書紀』
では即位が457年、
それと崩御が479年に
なっているのだが、
宋の国の記録では
崩御は477年になって
いるのだ。
2年の差があるのだ。
その根拠として、
清寧天皇が使いを出した
のが477年で、
「興(こう)が亡くなって、
弟の武が立った」というのが、
宋の国史に記されているのだ。
これまでの学者の人たち
がいかに『宋書』を読んで
いない、『日本書紀』も
読んでいないというのが
よく分かるのだ。
しかも、一度定説になって
しまうとなかなか訂正
できないというのは、
学派閥の中とかにいろいろ
あるのだと思うが、
つまらない勉強不足のために
ずっと日本の国民をだまして
きたというか、
日本国民に知らしめる
ことはなかったというのは
本当に罪深いことだと思う
のだ
『日本書紀』は
681年に天武天皇が
編さんを命じているのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる