どうも村田です
柳田は民族学を通じて、
清水は資料を読み込み
ながら、
歴史を科学的に
探求するなかで、
何とかその真実を
たどろうとした
のであるのだ。
「神は細部に宿る」
と言われるように、
伝承のなかには
人びとの生き方や
考え方が詰まっている
のだ。
それらを通じて、過去の
人びとの価値観や文化を
知ることができるので
あるのだ。
本物の歴史学とは、
資料をしっかりと調べ、
一人ひとりの生き方が
どのように共同体と
なったのかを解明して
いくことにあるのだ。
真に大切な歴史書で
あると思うのだ。
結局、私たちが本を
読むときや歴史を読む
とき、
その著者がどのような
思いで書いたのか
という点が気になる
ものであるのだ。
しかし、正直に言えば、
それは勘違いかも
しれないし、単なる
推測に過ぎないのだ。
今の私が抱えている問題、
今の私が考えている問題
に引き寄せて読むため、
清水が訴えたかった
ことが今日述べたことと
本当に一致しているか
どうかもわからない
のであるのだ。
そういった観点で
『素描 祖国の歴史』
は、著者の思いが
伝わってくる本である
のだ。
もしこの本を読む際には、
清水が当時どのような
悩みを抱えていたのか、
若き日の思想から現代に
至るまで、さらには日本が
敗北するかもしれない
という不安のなかで、
どのような思いでこの本
を書いたのかを考えて
いただけると嬉しいのだ。
冒頭で小説家が一人の
人間を主人公にして書く
小説としての歴史と、
事実に基づいた歴史書を
分けたと述べたが、清水を
主人公とした一人語りの
『素描 祖国の歴史』
という観点からみると、
また興味深いものがあるのだ。
逆にいえば、どんな人間
でも最後には自分のことを
語るものであるのだ。
いわゆる“ 面白く”
書かれた歴史書のなか
には、自分のことを
語っているのではなく、
おもしろいストーリーを
語っているだけのものも
あるのだ。
しかし、自分の問題に
必死に向き合おうとする
人は、歴史を乗り越える
ことができると考えるのだ。
少なくとも、今回の
清水三男という著者は、
自らの学問研究を通じて、
何かを乗り越えた人の
一人であると思うのだ。
ただし、このような本を
読む際には、その著者の
心情や立場に近づこうと
する気持ちが必要である
と思うのだ。
それがなければ、批評は
本当にはできないと思う
のだ。
結局、私たちが何十年、
あるいは何百年も前の
ものを読めば、
そこに古さや限界、
事実の誤りを感じること
は当然のことであるのだ。
しかしそういってしまえば、
今私たちが書いていること
今私たちが話している
ことも同様に、数年後
には間違いが明らかに
なるかもしれないのだ。
それでも、そうした
ものの背後にあるものが
重要であり、
著者が自分の現在の
問題と歴史を真摯に
見つめていたかどうかが
大切なのであるのだ。
私たちがこの本から
さらに学び、行動に
移していくためには、
この本で学んだことを
実生活にどのように
反映させていったら
よいのだろうか。
清水が強調しているのは、
私たちが歴史を学ぶことは、
単に過去の出来事を学ぶ
ことにとどまらず、
国民の生き方を学ぶこと
であるという点であるのだ。
それはいわゆる
“ 英雄豪傑的な歴史観”
への反発も込めて言って
いるのだろう。
もし全員が織田信長
のような存在になった
なら、社会は成り立たない
のだ。
サラリーマンが信長に
学ぶことは、むしろ
避けるべきだと考える
のだ。
逆に、この国で私たちが
どのような生活者として
生きてきたのかを振り返る
ことが、
現在の私たちの生き方を
律する手助けとなるかも
しれないのだ。
現代では、語らずに
生きることがもっとも
難しくなっているのだ。
もちろん例外もあるが、
SNSの時代やテレビの
ニュースのワイドショー化
など、
情報の流れが加速する
なかで、多くの人びとが
自分の生を充実させる
ことよりも、
語り続けることに
注力してしまうことが
多くなっているのだ。
無名で生きることが、
人間の歴史のなかで
もっとも尊い生き方であり、
もっとも国を守る
生き方である可能性が
あるのだ。
そのような意識をもつ
ことは、承認欲求や
デマに踊らされないための
精神的な歯止めとなるだろう。
それは運動や行動とは
異なるかもしれないが、
重要なのはその点を
読み取ることだと思うのだ。
まったく語らず、文章も
残さずに生きてきた人びとが、
優れた歴史家によって
美しく描かれるのだ。
それは、もしかしたら
さまざまな名を成した
人びとよりも
尊い生き方であった
のかもしれないのだ。
このような時代だからこそ、
私たちはその点を深く
読み取り、再検討すべき
だと思うのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる