どうも村田です
焚書処分によって、
われわれ日本人は
清水の本を読むことが
できなかったのだ。
その結果、どのような
歴史の空白が生まれた
のだろうか。
戦後の歴史学において、
清水的な視点は一時的に
失われた時期があったのだ。
この失われた時期が
最大の問題であったのだ。
その視点は完全に
失われたわけとは
言わないが、
例えば一時期、網野善彦
の中世歴史観が流行したのだ。
網野の歴史観は、
マルクス主義的な視点に
基づいており、
彼は中世の民衆の歴史を、
農村や既存の秩序から
はみ出していく
ドロップアウトしていく
視点から描いているのだ。
網野は、商人や僧侶、
あるいは盗賊、悪党と
言われた当時の
アウトローたちが、
農村に定住せずに
さまざまな共同体を
越えて移動していく様に、
中世の自由を見出したのだ。
網野は、寺院では犯罪者
を捕まえないだとか、
戦国時代の自由都市・堺
のような場所を評価して、
中世は民衆に自由が
あった時代だと主張
したのだ。
江戸以降、社会は完全に
管理社会となり、さらに
明治時代に抑圧体制へと
移行したのだ。
この抑圧体制の象徴として、
網野は天皇制を挙げている
のだ。
彼の歴史観はひとつの
解釈として魅力をもつが
現代の視点から見直すと、
相当な粗が見受けられるのだ。
彼が意味するところの
自由は、ある種の無秩序
のなかで許された自由で
あったのだ。
あるいは、お寺に入ると
捕まらないというのは
アジールというふうに
網野氏は言ったが、
実際には江戸時代にも
保護される空間は存在
しており、
決して中世だけのもの
ではなかったのだ。
とにかく、網野善彦の
歴史観は、農村に定住
して生きる人びとと、
都市や移動する人びとを
常に対立構造に置くもの
であったのだ。
清水は、移動と定住
というのは価値観の対立
ではないということを
伝えたかったと考えられる
のだ。
これは柳田國男も同様で、
柳田は定住しそこで生きる
人びと(柳田曰く常民)、
いわゆる庶民や生活者の
価値観が、共同体や国家を
支えるために絶対的に
重要だと考えていたのだ。
一方で戦後の歴史観には、
上述した常民たちの価値観
に反抗する自由こそが
人間を解放するのだという
傾向が濃厚に漂っている
のだ。
確かに小説などでは、
社会からはみ出した
人びとが主人公となり、
研究でもイレギュラーな
事例が取り上げられる
ことが多いのだ。
しかし、農村の共同体で
生活していた人びとに
焦点を当てることによって、
目立たない、名も無き
人びとを先祖として
しっかりと知ることが
できるのだ。
それに対して、清水の
歴史観は、農村とその
なかで生きる人びと、
共同体のなかで生活する
人びとがこの国の基底を
支えていると考えていた
のだ。
彼は、これらの人びとが
外部から来た人びとや
移動する人びとを決して
差別せず、
そうした人びとが共同体
に出入りしながら、
都市と農村の間で
さまざまな文化が伝わって
いくと見なしていたのだ。
名も無き人びとは、
書物を残すこともなく、
大事件を起こすことも
ないため、
それらの人びとの歴史を
資料で辿るのは非常に
困難であるのだ。
戦前にそのような歴史を
意図的に追求したことは、
ある意味で重要な意味を
もつと考えられるのだ。
そして現在、そうした
歴史観が回復されつつ
あると感じるのだ。
しかし、自由という言葉の
魅力は誰もが理解している
ものの、
自由を美化することが
社会研究においては
危険な側面を持つことが
あるのだ。
定住者、秩序のなかで
生きる人びとは、その
秩序を維持しながら
どのようにして国を支え、
同時に権力の干渉や
貴族の荘園支配に反発
してきたのかが重要な
問題であるのだ。
清水は、単に一揆を
起こすような抵抗ではなく、
定住者たちが、
自立した共同体を守る
ことが権力への真正の
抵抗であったと訴えたのだ。
この視点が戦後の
歴史学で失われた
時期があり、
英雄伝説にのみ注目
されるような時代が
続いたのだ。
しかし現在、歴史学は
改善されてきており、
この視点を再び復活させる
必要があると考えられる
のだ。
このような視点を
取り戻すためには、
過去の先達の著作を
読むことが重要である
と考えられるのだ。
柳田國男がなぜ小さな
話を集め、村の言い伝え
や迷信といったものを
一生懸命に記録したのか、
今の私たちには退屈に
思えるかもしれないが、
彼はそれらを辿らない限り
人間や日本の本質を理解
できないと考えていたのだ。
清水もまた、このような
歴史家としての視点を
もっていたといえるのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる