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考えたんじゃ

どうも村田です

聖徳太子が

「仏教や律令制度を

取り入れないと

日本が持たない」

と感じたことと同じで

清水は、だからこそ

古典古代の精神に簡単に

戻ることはできないと、

次の文章で強調している

のだ。

古典は単に時代が古いが

故に尊いのではない。

現代人の到達できぬ

彼方にあること、しかも

時と所とを隔てて何人を

も感動せしめずにはおかぬ

高い芸術品のみが、

時代の篩を経て、古典

として現代に伝えられて

来たものであることによる。

これがややもすれば

術数権策によって傑作と

宣伝され、偶像化される

ことのある現代作品とは

異なる、

高い芸術的価値を古典が

有する所以である。

さて、吾々はまたここに

天平の彫刻や万葉の数多い

歌の持つ一様のあるレベル

の高さを思わねばならぬ。

孤立した一二の偶然的な

傑作によって天平文化が

成っているのでなく、

国民文化と称すべき、広い

文化層の中からのみ生じ得る、

一様の文化の高さによって

成っていることを感ずる

のである。

すなわち、優れた文化は

決して一二の天才の努力に

よって生まれるものでなく、

国力の発展するような

国家組織の存在と関係する

ことを知らねばならない。

万葉歌人のおおらかな歌調は、

おおらかにあり得る国民生活

から生まれたのでなければ

ならぬ。

如何に、 吾々が万葉を研究し、

これを模しても、そのこと

から真のおおらかさをもった

歌は出ない。

いかに吾々が天平仏を

忠実に写しても、その高い

宗教性から来る美しさは

再現できない。

現代の芸術家が天平の

仏師のような宗教の世界に

いないばかりではなく、

仏像そのものの、国民生活

におけるあり方がまったく

変わってしまったからである。

ここで書かれていることは

重要であるのだ。

まず、私たち自身が実感

できることであるが、

神話が生活と結びついて

いた古代の感覚は、

私たちには正直言って

想像することが難しいのだ。

また、仏像についても、

私たちはそれをしばしば

美術の対象として見て

しまうのだ。

仏像は信仰の対象で

ありながら、美術の対象

でもあったのだ。

しかし、この視点は

近代とともに、良し悪し

にかかわらず失われてきた

のだ。

私たちが古代の本を

たくさん読んだとしても、

簡単に理解できるもの

ではないのだ。

実際、清水は安易に

古典古代を美しく称えて、

それに学べば日本人は

簡単に復活できるという

考えをもっていなかったのだ。

彼には、古代のものは

再生できないという

考えがあり、

“ 私たちは新しいものを

つくり出すしかない”

という決意があったのだ。

清水が最初にマルクス主義

に傾倒したのは、農村の

疲弊や労働問題など、

社会の矛盾を見たからだ

と考えられるのだ。

たとえば、農村の疲弊が

一因となって二・二六事件

などが起こされたのだ。

柳田國男も農村の疲弊に

対して訴えをおこなって

いたのだ。

柳田は、都市と農村を

単純な対立関係として

みるべきではないと強調

しているのだ。

そして、日本には

農村文化と都市文化があり、

じつは、これらは交流可能

だったとも述べているのだ。

しかし、経済の論理によって、

それらが切り離され、

資本主義の導入が農村の

文化や伝統を破壊し、

都市も貧しくする結果を

招いたと(柳田は)

訴えていたのだ。

清水がマルクス主義に

傾倒したのは、単にその

魅力を感じたからではなく、

現実社会に存在するさまざま

な矛盾を目の当たりに

したからであるのだ。

そういう矛盾を見て、彼は

これらの問題を解決する

ために単に古典・古代の

価値観に戻ることでは解決

できないと感じていたと

思われるのだ。

清水がこの本のなかで

過去の農村社会や日本の

成り立ちを強調しているのは、

明治から大正時代にかけて

西洋の近代主義を学ぶこと

が重要だったと認めつつ、

現在その西洋の近代主義

には限界が訪れ、もはや

学ぶべきお手本では

なくなったと考えている

ためであるのだ。

彼は、今こそ自分たちの

道をつくり出す必要が

あると訴えているのだ。

清水が提唱した日本の道

とは、古代から中世に

かけての農村の在り方に

基づいているが、

これは活字や記録で

確認できるものではないのだ。

なぜなら、その時代に

生きた人びとは自分たちの

記録を残していなかったから

であるのだ。

彼は、『古事記』や

『日本書紀』に加え、

平安時代から鎌倉時代に

かけての

法律文書や村の決まり事、

漁師と村の関係などを

丁寧に読み解くことにより、

日本のなかで権力が

変わっても変わらないもの

を探し出し、

そこに日本が足を据える

べき基盤があると考えた

のであるのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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