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生き残る為なんじゃ

どうも村田です

聖徳太子の時代に

日本固有の精神と

大陸からの制度や

仏教が融合し、

日本が文化的な頂点を

迎えたと述べているのだ。

共同体同士が恒久的

な対立関係に入った場合、

そのもっとも重要な事業

は戦争であるのだ。

これはその人びとが残酷

だからではなく、

古代社会や中世社会では

やむを得ない事態であった

のだ。

遊牧民や古代ギリシャ・

ローマの都市国家に

おいても同様で、

共同体間の利害関係が

解決できない対立に

陥ったときには、

戦争を通じて相手を

征服することが最も

重要な事業となるのだ。

征服後、相手の住民は

奴隷となり、その奴隷を

使って征服したのだ

土地を耕すことが、

古代社会における一般的

な歴史の一部であったのだ。

奴隷が増えるという

現象は、すくなくとも

古代において、われわれ

のイメージとは異なって

いるのだ。

奴隷が増えた理由は

残酷な扱いや酷い行為が

あったということより

重要なことは、敵の

共同体を占拠した場合に、

ずっと対立関係は続いて

いるために、

占拠された側の住民を

奴隷にするほか選択肢が

なかったからであるのだ。

新たな領土というのは

現代のように人口が

豊富なわけではなく、奴隷

を使って耕すことになるのだ。

このような関係は日本

には存在しなかったと

清水は述べ、

日本の歴史がアジアの

なかでも特殊である

ことを強調しているのだ。

清水の歴史的解釈に

ついては異論を持つ

人も多々いるだろう。

しかし、清水がこの

聖徳太子の時代、また

日本のこういう古典文化

に対して、

大きく回帰していった

ことには非常に興味深い

点があるとは考えるのだ。

十七条憲法に関して

「和を以て貴しとなす」

という言葉が世俗的に

解釈されることが多いのだ。

多くの人は、対立を避け、

妥協点なり、良い着地点を

見つけるべきだと解釈して

しまうが、

亀井勝一郎はこれを異なる

視点で捉えているのだ。

古代社会の朝廷で貴族

たちが権力争いを繰り広げ、

初めて激烈な闘争が

起こった時代において、

和を以て貴しとなすことの

重要性を強調したことが

すごいことなのだと

亀井氏は書いているのだ。

過酷かつ残酷なこと

蘇我氏と物部氏の間で

殺し合いが起きたことや、

当時の隋との外交関係まで

を考慮に入れたうえで、

憲法というものは

読まれなくてはいけない

という風に、聖徳太子の

書き残したものには

書かれているのだ。

国家建設という局面に

おいて、明治維新と

同じくらい、

ある種、重要なことが

起きていたと清水は

考えており、そのように

評価しているのだ。

この日本が幸福である

ということも本文に

記されているのだ。

このように、日本が

国運隆昌のなかで先人

たちによって築かれて

きたことが、

よく伝わってくる

場面であったのだ。

日本が農村共同体の

時代に戻るべきだと

思うこともあるが、

はたして戻ることが

できるのだろうか。

もちろん、そのまま

戻ることはできないのは

当たり前の話として

清水の場合、ほかの人

たち(日本の懐古的な、

日本浪曼派の一部に

あったような人たち)

のとらえ方とは異なり、

古典・古代の偉大な精神

をわれわれが簡単に

取り戻すことはできない

と考えているのだ。

どうしてかというと、

清水は近代史を学ぶ

ことを通じて、

ヨーロッパ近代を

経ていることが

あげられるのだ。

彼は、知識人として

ヨーロッパの学問を

深く学んでいるのだ。

とくに明治以降、日本は

過去の日本、江戸時代

までの伝統を切り捨て、

近代的に発展しなければ

生き残れなかったと

考えているのだ。

それは聖徳太子が

「仏教や律令制度を

取り入れないと日本が

持たない」と感じた

ことと同じであるのだ。

清水は、だからこそ

古典古代の精神に簡単に

戻ることはできないと、

次の文章で強調している

のだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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