どうも村田です
日本に奴隷制度が存在
しなかったことについて
清水なりの解釈を紹介
するのだ。
これを今少し、より
詳細に説明するならば、
牧畜の民は水草を追って
移動する為、
勢い他の集団との衝突を
生じ易く、その性
闘争的である。
ここに奴隷を生じ易い
原因がある。
かつ土地を財産とすること
を知らず、
家畜と奴隷とを唯一の
財産とするところから、
自然、奴隷の所有を欲して、
奴隷制度を生み易いのに
対し、農業の民は土地を
愛して定住し、土地を
財産とするから、
奴隷を求める欲望少なく、
奴隷はあっても主に
家内労働に従わせる
ことが多かった。
殊にわが国の農業は
水田耕作でヨーロッパの
如き麦作とは異なり、
土地に対する非常な注意
手入れが肝要で、とうてい
奴隷のごとき低度の労働者
ではなく、
土地に定住する有能な
自由民の力を待たねば
ならなかった。
そこに前述部民のごとき
制度の起きる一つの理由が
求められるのである。
支那や朝鮮も農業民が早く
中心をなしたが、大陸国
であるため、
たえず狩猟牧畜を主な生業
とする異民族の侵略を受け、
わが国のごとき他に攪乱
されることのない
国家社会を創り得なかった。
ここに朝鮮・支那には
わが国に見ない奴隷制度の
盛行が行われた原因がある。
国土国民共に同一祖神より
出たという信仰のごとき、
固い国家観念がわが国に
発達したのは、
上に示したような条件に
ひとり我が国のみが
恵まれていたことを考える
ことによって、十分理解
できると思う。
始めにおいて、よき出発を
なした者は幸福である。
わが国は幸いにして
あらゆる好条件に恵まれて
幸先よき出発をなした。
このことは今後のわが国運の
隆昌の原因をなしたのである。
共同体同士が恒久的な
対立関係に入った場合、
そのもっとも重要な事業は
戦争であるのだ。
これはその人びとが残酷
だからではなく、古代社会や
中世社会ではやむを得ない
事態であったのだ。
遊牧民や古代ギリシャ・
ローマの都市国家においても
同様で、
共同体間の利害関係が解決
できない対立に陥ったとき
には、戦争を通じて相手を
征服することが最も重要な
事業となるのだ。
征服後、相手の住民は奴隷
となり、その奴隷を使って
征服したのだ
土地を耕すことが、
古代社会における一般的な
歴史の一部であったのだ。
奴隷が増えるという現象は、
すくなくとも古代において、
われわれのイメージとは
異なっているのだ。
奴隷が増えた理由は残酷な
扱いや酷い行為があった
ということより重要なことは、
敵の共同体を占拠した場合に、
ずっと対立関係は続いている
ために、
占拠された側の住民を奴隷に
するほか選択肢がなかった
からであるのだ。
新たな領土というのは
現代のように人口が豊富
なわけではなく、奴隷を
使って耕すことになるのだ。
このような関係は日本には
存在しなかったと清水は述べ、
日本の歴史がアジアのなか
でも特殊であることを強調
しているのだ。
そういうときに、日本が
寛容であるとか、多神教
であるから平和であった…
と単純に言ってしまいがち
だが、清水はそういう
言い方はしていないのだ。
中国や朝鮮半島も昔は
多神教であったのだ。
清水の説明では、日本の
平和は地政学的な要因に
起因しているのだ。
日本は島国であり、
他民族との激しい衝突が
ほとんどなかったのだ。
清水はアイヌに関する
ことにも触れているが、
決定的な対立には至ら
なかったのだ。
奴隷を生み出すような
対立がなかったことが、
この国の平和を保つ要因
であったと清水は述べて
いるのだ。
清水は、当時の資料を
もとに先住民族論に対して
反論を展開しているのだ。
そのなかで彼が強調して
いるのは、日本において
大陸的な民族対立や
共同体間の殲滅戦が
存在しなかったという
点であるのだ。
これは彼の主張のなかで
非常に重要なポイントと
なっているのだ。
清水は、マルクス主義を
十分に学んだ人物として、
日本において階級対立や
支配が存在しなかったわけ
ではないことを認めている
のだ。
しかし、ヨーロッパや
アメリカ、さらには中国に
おけるものとはまったく
異なるものであると指摘
しており、こうした歴史を
通じてその違いを明確に
述べた点は非常に興味深い
のだ。
同時に、清水は、日本の
農村の平和なイメージを
その原点としたうえで、
古代中世の最盛期として
聖徳太子の時代を挙げて
いるのだ。
この時期、各村には小さな
神々が存在し、共同体は
神話で結ばれて安定していた
のだ。
しかし、律令国家として
成り立つためにはそれだけ
では不十分であり、
聖徳太子は仏教という
普遍的な信仰を日本に
導入したのだ。
これにより、各集落や部落
のモラルを超えた普遍的な
価値観を確立し、律令国家
のシステムが整備されたのだ。
清水は、聖徳太子の時代に
日本固有の精神と大陸からの
制度や仏教が融合し、
日本が文化的な頂点を
迎えたと述べているのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる