どうも村田です
清水は、古代の祭りや
神話が農耕儀礼と
結びついていたと考えて
いたのだ。
神話は、豊かな想像力
をもつ人びとが書いた
ものではなく、
当時の農業や人びとの
生活儀礼、とくに
米作りや畑作り、
土地の神への祈りと
深く関わっていると
見なしているのだ。
清水は、神話を
皇国史観的に捉える
のではなく、
国土に生きる民の農耕や
生活と密接に結びつけて
考えたのだ。
彼の考え方では、
古代社会は、生活や農耕、
仕事、個々の生き方、
信仰や神話が一体と
なった時代であると
しているのだ。
また、柳田國男の
『日本の祭』
における能登半島の
「あえのこと」という
祭りを例に挙げ、
田の神が稲作を終えた後、
農民の家に帰る儀式を
紹介しているのだ。
「あえのこと」
という祭りでは、田の神
が農民の家に帰ってくる
という儀式がおこなわれる
のだ。
このとき、家の主人が
神様として裃を着て
案内をし、神様と
一体化するのだ。
主人は神様をもてなす
ための儀式において、
神様をお風呂に入れたり
食事を出したりするのだ。
現人神という言葉は、
こういった儀式とも
おそらくつながっている
のではないか。
田の神様は土のなかで
守っていることから
目が見えづらいとされる
ため、
神に対して、主人は
「これはご飯ですとか、
これはおつゆでございます」
などと説明するのだ。
清水が伝えたいのは
神話があくまで農耕儀礼
と密接に結びついている
ということなのだ。
この儀式を通じて、
清水は神話を神国思想
や浪漫派のように理想化
するのではなく、
農業の儀礼と現実的な
生活に根ざしたもの
として捉えているのだ。
日本において、
天皇と国民は支配・被支配
の関係ではなく、
農村ごとに神様をもち、
その神が八百万神として
皇室と直結することで、
国民的な団結力が生まれる
のだ。
これが清水の解釈であり、
日本の信仰の在り方が
日本の原点であると主張
しているのだ。
日本の神話では、神々が
主役となる西洋の神話
とは異なり、
生きる民が主役であり、
神と一体となりながら
農耕をおこなうのだ。
ほかの国の神話では、
神が貧しい人間や旅人
として現れることが多い
のだ
日本にもそういう神話は
あるが、日本の神話では、
神は隠れた形で人前に
現れることが特徴である
のだ。
気づく者と気づかない者
がいるという感覚がある
のだ。
また、さきほど述べた
ように日本の田の神や
畑の神は、
主人と一体化して
もてなされるという
特有の感覚があり、
これは日本独自のもの
に近いと考えられるのだ。
「土により育まれる、
土の恩を知る」
とあったのだ。
とても土を大切にして
いたことが伝わってくる
のだ。
清水は、日本の原点を
農村に置くという視点を
もち、柳田國男が
「常民」という概念を
通じて日本の農村を
重視し、
明治以前の農村社会を
考察した点と似た
考え方をしているのだ。
清水は、日本というのは
農村と神話が一体化する
ところから始まったと
考えており、
この視点は柳田の影響を
受けた可能性が高いのだ。
あるいは柳田の著作を
読むことで清水が
マルクス主義から脱却
したのではないかと
感じるときもあるのだ
清水は、日本の国土との
一体感や神との一体感が
どのように生まれたか
について考察しているのだ。
彼は、わが国が狩猟民の
歴史を比較的早い段階で
終え、
古代から農耕を中心に
生きてきたことが一因
だと述べているのだ。
清水は、日本には
奴隷制度が存在しなかった
ことについて述べており、
その点について独自の解釈
を展開しているのだ。
清水なりの解釈について
は次回だ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる