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そこまできたんじゃ

どうも村田です

近藤がだんだん

偉くなってきて、

「近藤もわれわれ

平大使も含めて、みんな

同志であるはずなのに、

何か家来のように扱われ

ているのではないか」

というような不満が

あったのかもしれないのだ。

大体そんなところだと

思うけれど、それでも

斎藤一、永倉新八、

原田左之助といった

試衛館以来のコアの同志が、

核になるべき同志が

弾劾状を出したことに

ついて大変驚くのだ。

京都守護職としては、

要するに会津藩としては

公用人を、小林久太郎と

いうのだが、公用人が

弾劾状を出した段階で

受け取って、

そしていったんこれを預かる

からということで

近藤勇(いさみ)を呼び

「どうなっとるんだ」

ということで話をして、

結局双方話し合いをして、

6人は

「一カ条でもわれわれの

言っていることが間違って

いるのだったら全員切腹する」

などと言ったらしいのだが、

「まあまあ、そう言わずに」

ということで、

改めて今度は会津藩主である

容保自身が、殿様が6人に

対して

「まあそう言うな」

と説得し、同時に近藤にも

「おまえもほどほどにしろ」

というようなことを言ったの

だと思うのだ。

そういうことで、殿様

自らが説得に当たったのだ。

つい1年、2年前であれば、

殿様の顔を見ることすら

できないような身分だから、

それが直接に話をして

いただいて説得されて、

双方とも大変感動して、

ここはこれで収めよう

ということで収まることに

なったのだ。

近藤も永倉も中将の身分

である松平容保から直接

諭されて感激したと思う

のだ。

世が世であれば顔を見る

ことができないような

雲の上の人だから、

それが直々に語りかけて

くださったということで、

とりあえず円満に事態を

収拾して終わったのだ。

会津藩としても新撰組は

非常によく京都の治安を

守っているから、

そういうところに内部

分裂されたら困ると

京都を守っている守護職

としては、会津藩としても

必死だったのだと思うのだ。

だから、殿様が直々に

出てきたのだと思うのだ。

しかし、近藤や土方としては、

この6人はとんでもない

ということで、会津様から

言われているから

それ以上のことはしない

けれど、とりあえず

謹慎を言い渡したのだ

この中の最後の伍長

だった葛山武八郎だが、

彼はこの後、

近藤と永倉が隊士募集の

ために江戸に行くのだが、

その間の9月の6日に屯所の

中で切腹して死んだのだ。

葛山というのは実は

会津藩出身だったから、

彼が伍長だったから

切腹させられたのだ

という意見もあるけれど、

会津藩出身であった

葛山からすれば、

自分の殿様である

松平容保公の手を直接

わずらわせてしまった

ということに対する

申し訳なさがあって

切腹したのではないか

と言われているのだ。

その墓は壬生寺にあるのだ。

さて、池田屋事変もあり、

その後の禁門の変も

あって、

その後の内部粛清も

若干あり、新選組の隊士は

減ってくるわけなのだ。

そこで新しい隊士を募集

しようということで江戸に

行くことになるのだ。

近藤勇(いさみ)は

何人か引き連れて、

先ほどの二番組長の

永倉新八、

それから五番組頭であった

尾形俊太郎、それから

五番組長だった武田観柳斎、

これを連れて1864年、

元治元年の9月に江戸に

行くことになったのだ。

永倉新八は弾劾書を

出したうちの1人だが、実は

この時、江戸に行って老中に

意見書を出しているのだ。

その意見書を出した相手は

正しい老中ではなくて

老中格だが、

松前伊豆守崇広(たかひろ)

という人なのだ。

この松前伊豆守が、実は

永倉新八の旧主なのだ。

要するに永倉新八は

松前藩の出身なのだ。

そこで取り次いでもらう

のが一番いいだろう

ということで、

永倉新八を連れていった

のであろうということに

なっているのだ。

その内容は、とにかく

つい2年前までは町道場の

主であり、

そのまた数年前までは

東京の、今で言えば調布の

農民の三男坊だったのだが、

それが老中に対して

意見書を出すという

ところまで来たのだ。

その意見書の中身は、

「この際公武一体になって

直ちに攘夷(じょうい)を

実行すべきである。

それから、そのためには

将軍は、家茂(いえもち)

公だが、

「将軍家茂(いえもち)は

直ちに上洛すべきである」

という意見書でなのだ。

要するに幕政をというか、

日本の国の政治そのものが

すべきところまで

近藤勇(いさみ)は偉く

なったというか、そういう

立場になったということ

なのだ。

この時に何人か新しく

徴募しようということで

もって行くのだが、

近藤勇(いさみ)より

少し早目に出発していた

藤堂平助が、実は

近藤勇に向かって

「実はお会わせいたしき

御仁がござる」、

会わせたい人がいる

というふうに言うわけ

なのだ。

それは実は

伊東甲子太郎という人

であるということなのだ。

伊東甲子太郎は実は

天保6年生まれで、

これは近藤勇(いさみ)

より1歳下なのだが、

この時29歳で

常陸国新治郡志筑、現在は

茨城県のかすみがうら市に

なるが、

その志筑藩の藩士の

鈴木専右衛門、これの

息子なのだ。

志筑藩と言ったが、志筑藩

というのは実は大名ではなく、

8,000石の旗本の本堂家が

持っているはずなのだ。

藩といっても大名ではなく

小名になるのだが、一応

そこに8,000石の陣屋を構え、

侍もそこにいるから、一応

8,000石の志筑藩の藩主

ということに名目的になる

だが、

大番組頭をしている

交代寄合なのだ。

非常に身分の高い、大名

一歩手前の旗本だという

ことなのだ。

そこの侍だったのだ。

明治維新の際には

新政府軍に協力をして、

2,100石を加増されて

1万石を超えて、

明治維新の段階では

大名になったのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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