どうも村田です
真木隊は、大阪と京都の
間にある山崎の宝積寺、
宝寺というのだが、
この宝積寺に部隊が
入り益田隊は対岸の
石清水八幡宮に陣取った
のだ。
京都を西から南にかけて
全部包囲して、そして
長州勢は布陣を完了させた
わけなのだ。
どう見てもこれは一戦を
避けられない情勢となり
市民は大八車に家財道具を
乗せて避難するのだ。
迎え撃つ側は禁裏御守衛総督、
禁裏というのは天皇のいる場所、
御所のことだが、
禁裏御守衛総督、お守り
する総督である徳川慶喜、
後の15代将軍だが、
徳川慶喜をトップに会津藩、
桑名藩、薩摩藩、それから
大垣藩、さらに新撰組なのだ。
新撰組は当時伏見に陣取り、
今言った藩は御所の周辺に
陣取り、
そしていよいよ戦に
なったのだ。
これが禁門の変なのだ。
さて、禁門の変は幕府方の
勝利に終わったのだが、
新選組には出番がなかったのだ。
京都のずっと南の伏見を
守っていたために出番は
なかったのだ。
しかし、真木和泉の部隊は
逃げ遅れていたために、
これを追撃することになった
のだ。
追撃戦を行ったのが
新撰組なのだ。
近藤勇(いさみ)は
追撃先に移り、真木隊の
一部の17人が
山崎の宝積寺、宝寺に
踏みとどまったことで、
新撰組は宝積寺に到着
したのだ。
宝積寺に踏みとどまった
真木和泉は、全部で17人
いたのだが、これ以上
逃げられないと観念したのだ。
宝積寺は高いところにあり、
そこから京都が見えるのだが、
その京都に向かって
「尊王攘夷(じょうい)」
それから
「討薩賊会奸
(とうさつぞくかいかん)
の旗をひるがえしたのだ。
要するに会津と薩摩を討てと、
そういうことなのだ。
薩摩は当時、幕府方に
ついていたからなのだ。
そして、その旗を
ひるがえしていたのだが、
新撰組が迫ってきたから、
一行は宝積寺の三重の塔が
あるのだが、その前で
順番に腹を切って死んだのだ。
17人全員が腹を切って
死んだのだ。
そこへちょうど新撰組が
到着して、17人は自刃した
後だったのだが、
この時、近藤勇(いさみ)が
「敵ながら武士であるし、
自分たちの信念でもって
死んだんだから、手厚く
葬ってやろうではないか」
と、こう言うのだ。
ところが土方歳三は
「そんな必要ない」
と言って葬らなかったのだが、
こういうところにも
近藤勇(いさみ)
の人情味というか、
人間らしさみたいなもの
が出ていて、土方は人間に
対して非常に冷たい
ということをのちのち
言われるが、その1つの
例として言われる言葉なのだ。
近藤勇(いさみ)は、
ある意味非常に甘い
ところがあるのだが、
非常に人間に対して優しい、
寛容であるという部分があり
そういう人間がトップに
就いていると、2番手の人間が
厳しくしても、
トップの人は分かって
くれていると思うから、
何とかその組織は運営
することができるのだ
これがもし逆転していると、
組織は崩壊してしまうのだ。
そういう意味では、
近藤勇(いさみ)は
それだけの人徳のような
ものがあったのだと
言われるかもしれないのだ。
さて、いわゆる泣く子も
黙る新撰組の近藤勇と
言われるけれど、
その近藤勇は実は
隊士から弾劾をされて
いたということがあったのだ。
これも余り知られては
いないのだが、禁門の変が
起こったその翌月である
8月下旬、元治元年、
1864年の8月下旬のこと
なのだ。
弾劾状を出したのは、
池田に討ち入った永倉新八、
それから三番組長の斎藤一、
十番組長の原田左之助、
諸士取調役の島田魁
(さきがけ/かい)
それから同じく尾関政一郎
それから伍長の葛山武八郎
という、この6人が弾劾状を
出したのだ。
伍長というのは副長助勤の
下にいる5人の組を束ねる
役割という、
軍隊的に言うと分隊長になる
人だが、いわゆる幹部なのだ。
この幹部が6人もそろって、
局長である近藤勇(いさみ)
の弾劾状を会津藩に提出
したのだ。
びっくり仰天したのが
会津藩なのだ。
内部分裂するのではないか
ということで
実はこの弾劾の中身
というのは5カ条から
なっていることは
分かっているのだが、
具体的な中身は実は
今に伝わっていないのだ。
1つは、平隊士と幹部の
賃金格差が大きいのでは
ないかと、
局長とか副長とか、
副長助勤は随分高給を
もらっているけれど、
平隊士は命を張っている
にもかかわらず給料が
少ないのではないか
ということを言った
のではないかなという
意見が1つなのだ。
もう1つは大阪の豪商たち、
特に鴻池なんかに交渉して
御用金を出させようと
しているのだが、
そういう御用金を
出させるのはよくない
のではないかと、
きちんと会津藩から
お預かりになっていて
給料をもらっているのだから、
そんなところから金を
取り立てるのはおかしい
のではないかということを
言ったのではないか
ということなのだ。
それから、
「どうも簡単に
攘夷(じょうい)派だ
と言って斬りすぎて
いるのではないか。
攘夷(じょうい)派だと
言って目の敵にして人を
殺しすぎているのではないか。
われわれも攘夷のために
やっているのではないのか。
そういうやり方が討幕派
なのか佐幕派なのか、
幕府を守る側なのか、
幕府を倒す側なのか
という差はあるけれど、
攘夷(じょうい)で
あることには変わりは
ないので、
そういう点では
攘夷(じょうい)派
だからといって殺して
いいのか」と
そんなことを多分
言ったのではないか
ということなのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる