どうも村田です
幕府としては、
将軍警護のために幕府が
雇い入れて、
そして浪士組を作ったわけ
だから、これは幕府から
見れば完全な裏切り行為で、
清河八郎に対して
「とんでもないことだ」
ということで、
特に老中であった
板倉伊賀守勝静(かつきよ)
という人は激怒したのだ。
そして
「直ちに解散するように」
と言うのだが、清河八郎は
これを聞かないのだ。
そして一緒にくっ付いていた
山岡鉄太郎という人がいて、
これは後の山川鉄舟と名乗る
人だが、
山岡鉄舟が学習院の方に
働きかけて勅定を出してもらい
「おまえたちの気持ちは
よく分かったのであるから、
江戸に帰って攘夷(じょうい)
を実行するように」
という勅定を出してもらい
それによって一行は、勅定
というのは天皇からの命令だから
「分かりました」
ということで引き返すことに
なったのだ。
その時に何人かは引き返さないで
残ったのだ。
「いやいや、われわれは
やっぱり江戸からやってくる
将軍の警護をするんだ。
ちょっと待ってくれ」
ということで残った人がいたのだ。
この残った人たちが。大体20人
ぐらいいたのだが、この中の1人が
近藤勇(いさみ)たちの試衛館道場
の人と、
それと水戸の浪士出身であった
芹沢鴨の一派なのだ。
20何人だったと思うが、
いたのだ。
その人間たちをもって、
この人たちどうするのだと、
彼らはもともとの目的である
将軍の警護をしたいと
言っているのだから、それでは
どうするのだということになり、
松平容保、会津中将の
松平容保のお預かりということ
にして、
京都の治安の維持に使ったら
どうかということで、浪士組
として京都に残留することに
なったのだ。
京都に残留することになって、
それでしばらくした後に、
これは名前を新撰組と改めたのだ。
これが新撰組の発足なのだ。
ところがこの芹沢派というのは、
いろいろと乱暴狼藉(ろうぜき)が
多くて、
例えば商家に押し入って金品を
要求したり、あるいは要求を
聞かないとその商家の土蔵に
向かって大砲を撃ったり
とかなり無茶苦茶なことをして、
苦情が全部会津藩に来るのだ。
会津藩のお預かりになっているから
なのだ。
会津藩としてはそれは困り
京都の治安を守るために結成
させた新撰組が京都の治安を
乱していることになるのでは
ないか
ということで、ひそかに
近藤を呼んで
「これを何とかせいや」
ということを言ったわけなのだ
どういうことかというと、
要するに粛清しろということで、
芹沢一派は粛清されてしまって、
試衛館道場出身の者たちが
中心となったいわゆる新・新撰組、
いわゆる新撰組が登場する
ことになるのだ。
ここで近藤勇(いさみ)が
新撰組の局長というトップになり、
副長に土方歳三が、これは直属の
副長であり横についている副長
ではないのだ。
その副長の下に一番隊から、
一番組とも言うのだが、
一番組から十番組、それ以外の
小隊がついて、
各隊長のことを助勤といい、
一番組長、助勤、副長助勤という
言い方をして部隊が編成されて、
皆の知っているいわゆる
新撰組が出来上がっていくのだ。
この新撰組の最大の見せ場
というのは池田屋事件だと
思うが、
この池田屋事件というの は
承知の通り、いわゆる
攘夷(じょうい)の激派たちが
集団でもって
京都に混乱を起こして、その混乱を
起こしている最中に放火をして、
その最中に孝明天皇を長州に
連れていって、
孝明天皇を長州にお連れして、
そこでもって攘夷(じょうい)の
旗頭にするのだというような
計画を練ってい たとされている
わけなのだ。
そういう激派の取り締まりを
していた中で、古高俊太郎という
男が新撰組によって捕えられるのだ。
この古高俊太郎というのは、
捕えられたのは元治元年、
1864年のことなのだ。
新撰組ができてから1年後だが、
この古高俊太郎という郷士の
出身で山科、
要するに今で言う京都市山科区
だが、そこで寺侍をした後に
京都に出てきて、
時勢的に時代の子として
尊王攘夷(じょうい)運動に
加わるようになるのだ。
その中で木屋町の、
木屋町四条上ルという所だが、
そこで枡屋喜右衛門という人の
棚屋があるのだが、
その棚屋の養子に入り、
そのまま枡屋喜右衛門を名乗って、
それがいわゆる過激派のアジトに
なっていくのだ。
そのアジトといっても、北に
200メートルほど行くと土佐藩が
あって、
700メートルぐらい行くと
長州藩があるという、非常に
地の利のいいところで、
そこでいわゆる肥後の
宮部鼎蔵(ていぞう) や長州の
久坂玄瑞(げんずい)であるとか、
あるいは土佐の吉村虎太郎
のような人たちが出入りし て、
倒幕の話をたくさんしていた
ということなのだ。
それが新撰組によって捕えられて、
これは6月5日の話だが、かなり
激しい拷問を加えて、そして
「実は風の強い日に京都の町と、
それから御所にまで火をかけて、
そこで孝明天皇を拉致して長州へ
連れていって攘夷(じょうい)を
実行するのだというような計画があり、
そのための 会合が開かれます」
ということを彼は自供してしまう
のだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる