どうも村田です
明治維新というのは
大変に面白いと言っては
何だが、奇妙な出来事で
あり、
幕末に攘夷(じょうい)を
しなくてはいけない
ということについては、
気持ちとしては幕府もそうだし、
朝廷はもちろんそうだし、
各藩もそうなのだが、
攘夷(じょうい)は
攘夷(じょうい)でも実際に
攘夷 (じょうい)などが
できるのかという議論が
あったのだ。
最後の最後まで
「攘夷(じょうい)はできるんだ」
と言っていたのは、
いわゆる浪士の人たちなのだが、
幕府がアヘン戦争の状況を見て、
これは日本はとても攘夷(じょうい)
はできないと思って
解放の方に踏み込んでいくのだが、
口先では
「攘夷(じょうい)をやります」
ということを 朝廷に言っている
わけなのだ。
それに対して朝廷は、
当時は孝明天皇だが、
孝明天皇は強い攘夷(じょうい)
論者だから、外国への開国など
もってのほかであるということで、
特に薩摩、長州、土佐、
西の方の藩を中 心に開国反対、
攘夷(じょうい)決行という強い
意志があったのだ。
それによってなのだが、
馬関戦争という、下関を通過する
外国の4つの国の艦隊を長州藩 が
砲撃するという事件があって、
逆に長州藩は砲台を占拠されて
しまうという馬関戦争という戦争で、
長州藩は負けてしまうのだ。
同じころ、今度は薩摩藩が
イギリスと錦江湾で、今の
鹿児島湾だが、
そこでもって大戦争を薩摩藩と
イギリスの艦隊でもってしたのだ。
イギリス軍もかなりひどい目に
遭うのだが、何と鹿児島市内は
砲撃によって全部焼かれてしまう
のだ。
これによって長州藩も薩摩藩も
実は攘夷(じょうい)というのは、
言うのは簡単だけれど現実に
難しいと、
これはダメだということを
悟っていくわけなのだ。
しかしながら、自分たちは
攘夷(じょうい)だと言って
幕府をずっと揺さぶってきた
わけだから、
このまま
「やっぱり開国ですね。
幕府の言う通りです」
と言うわけにはいかないから、
あくまで攘夷(じょうい)路線を
貫いていくわけなのだ。
そして、自分たちが政権を
取った段階でもって一気に
開国して、
そして文明開化の時代を迎える
という、攘夷(じょうい)と
言っていたものが実は開国をした
という、
ある意味ではなはだ奇妙な
ストーリーが明治維新には
見られるのだ。
話を戻すと、そういう中で
近藤勇(いさみ)たちは浪士組に
入るのだが、
実は近藤勇 (いさみ)という人は
とても政治の好きな、
イデオロギーの好きな人なのだ。
後の話だが、近藤勇(いさみ)は
文久3年に京都に着くのだが、
その年の10月に一力茶 屋という、
京都の祇園で有名なお茶屋さんが
あるけれど、そこで、会津藩、
佐賀藩、薩摩藩 などの公用方、
公用方というのは、要するに
渉外担当者なのだ。
そういう人たちが会合を開いた
時に近藤も呼ばれて、
「近藤さんはどう思うんだ」
というふうに言われ、
彼自身は公武合体による
攘夷(じょうい)というものを
決行しなくてはならない
ということを、とうとうと
述べているわけなのだ。
この辺の考え方は、実は
今挙げた佐賀藩、会津藩、
薩摩藩の幹部たちもあまり
意見は違わないから、
「そうだそうだ」
ということで気炎を上げた
という話が残っているのだ。
そういう意味では、
攘夷(じょうい)と言いながらも、
いろいろな攘夷(じょうい)が
当時はあり、
あくまで攘夷(じょうい)だ
という、要するに今現在の武力
でもって外国勢力を追い出すのだ
という攘夷(じょうい)と、
それからいわゆる朝廷と幕府、
公武というか、公の朝廷、
そして武が幕府で
これを公武一体論と言うが、
公武一体となって攘夷(じょうい)を
すべきであるという議論と、
とても勝てないので、とりあえず
開国して近代化して強くなって、
その後攘夷(じょう い)をしたら
いいではないかという、
これを大攘夷(じょうい)という
言い方をするけれど、 そういう
いろんなものの見方があったのだ。
しかし、基本的に攘夷(じょうい)
であることには変わりはないわけ
なのだ
内心では攘夷(じょうい)無理だ
と思っている薩摩藩、長州藩、
幕府もあったのだが、
建前的には全員
攘夷(じょうい)ということで
あったのだ。
さて、文久3年の2月なのだが、
浪士組は出発して京都に向かった
のだ。
京都に着いた一行は234人であり、
この時に、これから京都に入るよ
というところでもって
沖田総司、後に新撰組の
一番隊組長になるが、その
沖田総司が柄袋を取った
という話があり、
それを見たほかの者は感心
したそうなのだ。
京都ではいわゆる
攘夷(じょうい)浪士がテロを
行っているから、
刀に柄袋をしていたらすぐに
刀が抜けないから、それでは
ということで柄袋を取ったことを
褒められたという話があるのだ。
余談になるが、
井伊掃部頭直弼
(かもんのかみなおすけ)は
桜田門外で斬られて死ぬけれど、
あの時の護衛も武士がずっといる
のだが、
あの日は雪が降っていたのもあり、
皆手甲・脚絆(きゃはん)に柄袋を
しているのだ。
刀が濡れてはいけないから
なのだ。
そのために刀を抜くのが
ものすごく遅れるのだ。
そのために水戸浪士たちに
斬られたのだというような
話もあるのだ。
さて、文久3年の2月の末に、
一行は23日に京都に着き、
壬生の宿舎に着いたのだ。
2つの宿舎に分かれて泊まった
のだが、言い出しっぺの
清河八郎が「全員集合しろ」
と言って、
すぐ横に新徳寺というお寺が
あるのだが、そこのお堂に
全員を集めたのだ。
そして彼はこういう演説を
するのだ。
「将軍警護といって皆さんを
集めたけれども、それは名目で
ある。
天皇直属の攘夷(じょうい)軍
となって、そして攘夷(じょうい)
するんだ」と、
そして6人の浪士を呼んで上書、
上に奉る書を渡して、
「これを諸君は明日、御所の
学習院に持っていきなさい」
と言ったのだ。
学習院というのは当時も勉強する
場所ではあったが、実際には
公家たちが浪士たちの意見を聞く、
そういう聴聞をするような
場所にもなっていたのだ。
そして、その6人に対して、
「きちんとこれを届けて
受け取ってもらえ。もし
受け取ってもらえな かったら、
君たち6人はそこで腹を切れ」
というようなことを威勢よく
言って、6人は仕方なく翌日
学習院に行ってその上書を
届けたのだ。
その上書はきちんと学習院の方に
受け取ってもらったのだ。
その内容が、
「実は私たちは攘夷(じょうい)を
断行するために来たのであって、
その攘夷(じょうい)を阻むものが
あったこれを厳しくとがめる。
もし幕府が攘夷(じょうい)を
しないのであれば、われわれは
その幕府を倒すんだ」
そのようなことがその上書に
書いてあったのだ。
つづきは次回だ
今日はこのくらいにしといたる