どうっ村田です
今日からは
新選組局長だった
近藤勇(いさみ)
について書いてみるのだ。
承知の通り、近藤勇
(いさみ)は新撰組の
局長として
幕末に京都で活躍をした
人で、幕末の日本史を
語るうえでは欠かせない
人物だが、
その近藤勇(いさみ)は
天保5年1834年、現在の
東京の調布市に生まれた
のだ。
彼は宮川久次郎の家の
三男として生まれたけれど、
生まれた時の名前は勝五郎で、
後に勝太と名前を変えて、
子どものころは通称で
「かっちゃん」
と言われていたのだ。
宮川家というのは
いわゆる本百姓の家柄で、
江戸時代に農民というと
地主がいて、
その下にいわゆる本百勝が
いて、その下に小作農というか、
田んぼを借りて働いている、
そういう農民がいたと
言われているのだ。
特に江戸時代は、実は
農民というのはそれほど
貧しくはなく、そこそこの
豊かさを持っていたのだ。
小作農は大変少なくて、
ほとんどは自作農、いわゆる
本百姓と地主階級だったのだ。
この宮川家というのは
今の東京の調布だが、東京の
調布というのは多摩地方に
あり、
江戸の幕府の直轄地、
要するに天領に属していた
わけなのだ。
天領というところは
ほかの藩と比べて年貢が
非常に緩やかで、
大体四公六民、いいところだと
三公七民ぐらいで、収穫した
農作物の3割から4割は幕府に
納めるのだが、
残りの半分以上は自分で
取ってよろしいと言うこと
だったのだ。
藩の場合には五公五民や
六公四民、六公というと
6割を藩に取られてしまう
けれど、
中には七公三民というのがあり、
7割取られるところでは一揆が
起こったりする可能性があり、
三公七民、あるいは四公六民
でもって、どちらかというと
大変豊かな家柄、土地柄だった
のだ。
大体当時の多摩地区の農民
というのは天領だから、
大体そういう感じの自作農が
ほとんどだったのわけなのだ。
それぐらい余裕があると、
そういうところでは例えば
演劇をやったり、あるいは
歌舞伎・能をやったり、
あるいは剣術をやったり、
学問をやったりという
農民がたくさん出てくるから
多摩地区はどちらかというと
武芸が盛んで、剣道をする
農民が多かったということ
なのだ。
このころの日本の歴史では、
江戸時代の農民には名字が
なかったと言われている
けれど、
これは真っ赤な間違いで、
農民といえども皆苗字を
持っていたのだ。
ただし、お触書でもって、
農民が名字を名乗ることは
許さない、
農民は名字を名乗ることは
できないということで
名乗ることは禁止されて
いたけれど、
持つことは禁止のしようが
ないから、戦国時代以降、
みんな畑が忙しいときは
農民をやり、
畑が暇な時には戦国大名に
くっ付いて戦に出たり
しているわけなのだ。
そういう中では皆が苗字を
持っていたのだが、
江戸時代になって名字を
名乗ることを禁止されたから、
名字は名乗らないで名字は
持っていたのだ。
だからお墓に行くと、
お墓には
「南無阿弥陀仏
(なむあみだぶつ)」
と書いてあるけれど
大体横にその家の名前が、
例えば宮川なら宮川家とか
近藤家とかが書いてあり、
後ろに戒名が書いてある
というのが普通なのだ。
だから、苗字は持っていた
のだが、従って宮川家という
本百勝の家に生まれたという
ことになるのだ。
彼は三男だということもあり、
非常に剣術が好きで、剣術の
練習を一生懸命していたのだ。
当時、江戸には3大道場
あるいは4大道場と
言われる道場があり、
1つは斎藤弥九郎の
神道無念流、練兵館道場
これは今の靖国神社の所に
あったのだ。
もう1つは桃井春蔵の
鏡新明智流、士学館道場で、
これは南八丁堀にあったのだ。
さらには千葉周作の
北辰一刀流、玄武館道場、
これは神田の於玉ヶ池
(おたまがいけ)、
今の神田駅の北東に当たる
けれど、そこにあったのだ。
それ以外に心形刀流という、
伊庭秀業(ひでなり)の
道場が九段の、今で言うと
千鳥ケ淵公園のそばにあったのだ。
だから3大道場、4大道場と
言われるのだが、こうした
道場たちは、有名な道場は
あちらこちらから、
日本中から弟子が集まって
来て一生懸命稽古(けいこ)
をするから、
それなりに栄えるのだが、
それ以外の道場はそれほど
あまり栄えないから、
今の東京の牛込柳町に
あった試衛館道場、
この道場では道場主自らが
防具を担いで多摩地区に
出向いて、
そして出稽古(でげいこ)
といって、地元の農民の
子弟たちに稽古(けいこ)
をつけるわけなのだ。
そうした中に
近藤勇(いさみ)
もいたというわけなのだ。
その近藤勇(いさみ)
はなかなか筋がよくて
上達したものだから、
師匠である近藤周斎に
認められて、三男坊で
あったということもあって、
近藤の養子に入るのだ。
といっても、近藤周斎
自身も養子だったから、
近藤周斎の実家である
嶋崎の家の養子になって、
そこでまずは
嶋崎勇(いさみ)
と名前を変えて、
そこでその後に
近藤周斎が亡くなった
後に近藤勇(いさみ)
となって、
試衛場の第4代目の道場主、
宗家ということになったのだ。
その間に御三卿の1つの
清水家から奥さんをもらって、
その翌年、翌々年には一人娘
たまという娘が生まれたのだ。
これが幕末になったぐらいの
近藤勇(いさみ)の動きなのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる