どうも村田です
名言の続きなんじゃ
「人というのは、
10歳で死んでいく人
には、その10歳の中に
春夏秋冬の四季が
あります。
20歳で死んでいく人
には、その20歳の中に
春夏秋冬の四季が
あります。
30歳で死んでいく人
には、その30歳の中に
春夏秋冬の四季が
あります。
50歳で死んでいく人
には、その50歳の中に
春夏秋冬の四季があり、
100歳で死んでいく人は、
その100歳の中にまた
春夏秋冬の四季がある
のです。
10歳で死んでいく人
を見て、あまりにも
短いと考えるのは、
もともと命の短いセミを、
もともと長寿の椿の霊木
と比べるような愚かなこと
ではないでしょうか。」
「それと同じことで、
100歳まで生きる人を
見てあまりにも長いと
考えるのは、
もともと長寿の椿の霊木
を、もともと命の短い夏の
セミと比べるようなものです。
どちらの考えも天寿と
いうことは分かっていない
考えと言えるでしょう。
私はすでに30歳になります。
稲に例えれば、もう稲穂も
出て、実も結んでいます。
その実が、実は空ばかりで
中身のないものなのか、
あるいは立派な中身が
詰まったものなのか、
それは本人である私には
分かりません。」
「けれども、もしも同志の
人々の中で、私のささやかな
誠の心を哀れと思う人がいて、
私の誠の心を私が受け
継ごうと思ってくれる人が
いてくれたら幸いです。
それは、例えば1粒の米が
次の春の種もみになる
ようなものでしょう。
もしもそうなれば、私の
人生は空ばかりで中身の
ないものではなくて、
春夏秋冬を経て、立派に
中身が詰まった種もみで
あったということになります。
同志の皆さん、どうか
そこのところをよく
考えてください。」
以上だが、松陰はここで
自分の死を1粒の種もみに
例えているのだ。
「私は死んでも、私の志を
継ぐ者が現れれば、それは
私が立派な種もみ」、
原文では高麗の種子だが、
「であったということであろう」
と言っているのだ。
時代も場所も全く違うが、
この言葉と極めて近いことを
言っている人がいるのだ。
イエス・キリストで
『新約聖書』の福音書には
こういう一文があるのだ。
「1粒の麦は、地に落ちて
死なねば、いつまでもただの
1粒である。しかし、死ねば
多くの実を結ぶ。」
また、イエスはこういう
ことも言っているのだ。
「1粒の麦が1粒の麦として
生き続ける限り、それは
やがては朽ちるだけのただの
1粒にすぎないが、
それが良い地に落ちれば、
伸びて育って、実って30倍、
60倍、100倍の実を結ぶ。」
イエスが言っていることと
松陰が書いていることは
ほぼ同じなのだ。
洋の東西を問わず、時代を
問わず、抜きん出て高く
深い境地に達した人物の
言うことは、
やはりどこか共通する
ところがあるようなのだ。
ちなみに、イエスは
こういうことも言って
いるのだ。
次に掲げる言葉は、1人
松陰を理解するうえだけ
ではなく、
わが国の歴史上の志士や
英霊と呼ばれる人々のことを、
今の私たちが理解するうえで
忘れてはならない言葉だろう。
「私はあなたたちのために
命を捨てる。友人のために
命を捨てる以上の愛はない
のだ。」
これがイエスの言葉だが、
この言葉に従えば、松陰も
そのほかの志士や、また
近代の日清、日露、大東亜
の戦いで
祖国のために散華された
英霊たちも、実はそれ以上の
ものはないというほどの愛に
満ちた人々であった
ということになるのだ。
問題は、今を生きる私たち
自身はどうかということなのだ。
私たちは、松陰をはじめと
する祖国の先人たちの志を
受け継いでいる稲と言える
だろうか。
また、私たちは中身が
詰まった種もみのような
人生を送れているのか
そして、私たちは彼らの
ような愛に満ちているのかか
それらのことを考えていくと、
お互い反省すべきところが
少なくないのではないかと
思うのだ。
その後、『留魂録』
の文章は、かねてから
入江杉蔵、野村和作たちと
抗争していた
尊攘堂という学校を建設
する話や、同じ伝馬町の
獄舎に入れられている
志士たちの紹介に入るのだ。
そして、『留魂録』は、
最後に5首の和歌で締め
られているのだ。
そのうちの1首を
挙げておくのだ。
「呼びだしの声まつほかに
今の世に 待つべきことの
なかりけるかな」
歌の意味は
「処刑を言い渡すための
呼びだしの声がもうすぐ
かかるでしょう。
その声を待つことのほかに、
今の私にはもはや何もする
ことはありません。」
かつて小林秀雄は、講演で
この和歌を取り上げてこう
語ってるのだ。
「もう1つお話しします。
これは歌です。人間の真の
自由というものを歌った
吉田松陰の歌であります。
松陰が伝馬町の獄で刑を
待っている時、
『留魂録』という遺書を
書いたことは皆さんも
ご存知でしょうが、その中に
辞世の歌が6首あります。」
最初の1首と最後の
5首で6首ですね。
「その1つ、
『呼びだしの声まつほかに
今の世に 待つべきことの
なかりけるかな』。
呼びだしの声とは、むろん
首切りの呼びだしであります。」
小林はこう語った後、
この講演をブツリと
終わっているのだ。
それは人間の真の自由と
その和歌とがどのように
関係しているのか、
これは戦前の講演録で、
講演を聞いていた人々に
自分の頭でじっくりと
考えてもらいたかった
からではないかと思うのだ。
呼びだしの声を待つこの
和歌と、人間の真の自由は
どう関係しているのか
ということを、
小林秀雄は説明せずに
「考えてください。
関係しているんですよ」
と言っているのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる