どうも村田です
「今こそ誰かが
立ち上がらなくては
ならない、
そう思った時には、その
行動によって何かが変わる
可能性が高かろうが低か
ろうが、
また自分たちが生き
ようが死のうが、そんな
結果などは何も考えず、
真っ先に自分が立ち上がる」
それが松陰の考える
真の忠義の人の姿なのだ。
ちなみにそのころは、
松陰の過激な行動を
いさめていた高杉晋作、
久坂玄瑞などだが、
松陰の死後、まさに
彼ら自身が
「僕は忠義をするつもり、
諸友は功業をなすつもり」
という覚悟で政治活動を始め、
やがては彼らも次々と若い
命を散らしていくのだ。
もしかしたら松陰の門人
たちは、自分たちが決死の
行動をしてみて、
その後ようやく生前の松陰の
言葉の本当の意味が理解
できたのかもしれないのだ。
次に松陰が熱中したのが、
藩主・伏見要駕策なのだ。
これは、参勤交代のため
江戸に向かう長州藩の藩主が
京都に近づいたら、
伏見でそのかごを止め、
強引に尊王攘夷の志を持つ
公家たちと合流させて、
勅命を奉じて挙兵しよう
という計画なのだ。
しかし、松陰に付いてくる
門人はほとんどいなかったのだ。
ただし、最後まで松陰の
指示に従って、命を懸けて
行動しようとした門人が
2人いたのだ。
入江杉蔵、九一とも
言い、それと、実の弟の
野村和作、維新後は野村靖
なのだ。
しかし、計画は露見し
初めに入江九一が捕らえられ、
後に野村和作が京都まで
たどり着くものの、
進退窮まって自首し、
結局2人とも岩倉獄に
投獄されてしまうのだ。
九一と和作の兄弟が投獄
されたのは言うまでもなく、
かつてあの金子重之輔が
入っていた岩倉獄なのだ。
時に安政6年3月で、
そのころの松陰の気分は
最悪のものであったと
思われるのだ。
なぜならば、そのころの
松陰の手紙には、まさに
自暴自棄としか言いようのない、
痛々しい言葉がたくさん
書かれているからなのだ。
例えばこういうもので
1つ目、
「尊王攘夷の夢ももはや
消え果てました。同志にも
少しも頼みになる人物がいません。
長州藩ももうどうしようも
ありません。私は今、
わずかの間も生きている
ことが面倒になりました」
2つ目、
「私はもう1日もこの世に
いたくありません。早く
死刑にしていただきたいので、
どうかそうなるよう周りの
方々に働きかけてください」
3つ目、
「早く死刑にしてもらわなければ、
この悲しみには耐えられません。
父母も親戚も私のことを
狂人として扱っていただいて
結構です。私は皆と絶交します」
以上だが、まるで心から鮮血を
流しているかのような松陰の
姿を、周りの人たちは、ただ
はらはらしながら見守るしか
なかったと思うのだ。
それもこれも考えてみれば、
松陰が自分の国の未来を
心の底から心配するあまり
のことだったのだ。
昔も今も、自分自身のことや
自分の家族や職場のことでなら
そこまで思い詰める人は少なく
ないのだでろうが、
自分の国の未来のことで
ここまで思い詰めることの
できる人など、
さすがに幕末という時代
でもそれほど多くいた
とは思えないのだ。
しかし、そういう人々が
かつて日本には確かに
存在したのだ。
その代表例が松陰なのだ。
現代人からすれば、
狂気、狂っているとしか
見えないかもしれない。
しかし、そういう現代人でも、
松陰のような人々がいた
おかげで、
幕末の日本が植民地にならず、
近代国家を建設して独立を
守ったこと、
そしてその恩恵を間違いなく
私たちが今受けていること、
それらの事実ぐらいは認め、
先人たちに素直に感謝
すべきではないか。
入江九一、野村和作が
岩倉獄に投獄された後、
向かいの野山獄にいる
松陰との間で
しきりに手紙のやりとりが
行われ、そこで生きるとは
何か、死ぬとは何か
ということが盛んに議論
されるのだ。
手紙でのやりとりだから、
全部残っているのだ。
先の自暴自棄の手紙から
程ない4月4日、野村和作
宛てに書かれた長い手紙が
あるが、
その中にはまさに鬼気迫る
としか言いようのないような
ことが書かれているのだ。
「今、私が死を求めて
やまないのは、このまま
生きていても理想を実現
するための行動を
起こせる見込みが全くない
からです。もしも私が
死んでみせたら、
それで考えを変えてくれる
人も誰か現れるかもしれません。
それならそれで、
1つの死ぬ理屈は通っている
はずです。
それに、今のような日本の
危機に誰一人決死の行動を
起こす者がいないというのは、
まるで日本人がみんな臆病者
になってしまったかのようで、
あまりにもあまりにも
情けないではありませんか。
ですから、まずは私が
死んでみせようと言って
いるのです。
そうしたら、友人たちや
古い知人、生き残った誰かの
中から、少しは日本のために
力を尽くす人が現れるかも
しれません。本当に私が
考えているのはそのこと
だけなのです」
以上だが、ここで松陰は、
「まずは自分が国のために
死んでみせる。そうすれば
誰かが立ち上がってくれる
かもしれない。だから私は
死にたい」
と書いているのだ。
松陰は、はっきりと自分の
命を1つの賭けに差し出そうと
していたのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる