どうも村田です
幕府を批判する人々を
権力と暴力で黙らせる
政治、いわゆる恐怖政治
を始めるわけなのだ。
まずは井伊直弼を批判
していた大名たちが、
隠居、謹慎などの処分
を受けるのだ。
そして9月になると、
京都で活動していた
志士たち、その志士
たちに協力していた
朝廷内部の人々などが
次々と逮捕されていき、
これがいわゆる安政の
大獄の始まりであるのだ。
この状況を知って、
松陰は直接行動に出る
決意を固めたのだ。
いずれも過激な行動計画
なのだ。
そのころの松陰が計画した
ものは、少なくとも7つほど
はあったのだ。
どれも実現はしなかったが、
その中で後々問題となるのは、
老中間部詮勝(まなべあきかつ)
要撃策と呼ばれるものなのだ。
これは老中間部詮勝
(まなべあきかつ)を
「憂国の志士を弾圧
する元凶である」とみて、
暗殺しようとした計画なのだ。
そのような計画を立てた
ことを、後に松陰が江戸の
奉行所でいわば、
におわせてしまい、それが
死罪の主な理由になった
のではないかと一般には
言われているのだ。
確かに、そのころの
松陰の手紙には
「同志を集め、速やかに京都
に上り、間部(まなべ)の首を
取り、それを竿の先に掲げる」
などと、とても勇ましい
ことが書かれているのだ。
松陰の立てたその計画に、
すぐ門人17名が賛同した
のだ。
「先生、一緒にやります」
と、彼らの血判状も整うのだ。
ところが驚くべきことに、
その後、松陰は長州藩に
「これから老中を襲う予定です。
老中を襲うために必要な大砲、
小銃などの武器を貸してください」
という書類を提出しているのだ。
松陰からすれば、それは
あくまでも日本を救うための、
やむにやまれぬ大和魂に基づく、
義に基づく堂々たる軍事行動
だったのだ。
現代人の感覚から見れば
テロ計画にしか見えないだろうが、
当時の感覚では違うのだ。
武士としての正当な軍事行動
と松陰は思っていたわけなのだ。
現代人が忘れてはならない
ことは、松陰たちはあくまで
武士であったということなのだ。
いったん有事の際、武士が
軍事行動を起こすのは、
当時としては何の問題もないのだ。
ないどころか、むしろ
起こさなければならない
というのが武士の正しい
在り方だったのだ。
だから、松陰は何一つ悪びれる
ことなく、藩に対してそのような
要望を堂々と出せたのではないか
と思うのだ。
あるいは、松陰はわざと
そのような過激な行動計画を
藩に願い出て、それによって
怖がって傍観を決め込んでいる
藩の政府に揺さぶりを
かけようとしたのかも
しれないのだ。
そのころ、長州藩の要人たちは、
幕府の恐怖政治にひたすら体を
小さくしておびえていたわけだ
から、
松陰の行動計画を聞いたら、
多分、藩の要人たちは聞いた
だけで腰を抜かすほど驚いた
と思うのだ
そこで藩の要人たちは、
「松陰先生にはもうともあれ、
しばらく静かにしていただく
ほかない」と判断するのだ。
そして、再び松陰を
野山獄に投獄すると決めるのだ。
こうして松陰は安政5年の
年末、再び野山獄に投獄
されたのだ。
明けて安政6年の正月を
松陰は野山獄で迎えるのだ。
年齢は数えで30歳に
なり、松陰が生きて
迎える最後の正月なのだ。
そのころの松陰は、まだ
老中間部詮勝(まなべあきかつ)
要撃策を諦めていないのだ。
ところが、高杉晋作や久坂玄瑞
など、松陰が信頼して
やまなかった5名の門人たちから、
連名で松陰宛ての手紙が届くのだ。
内容は、
「今は義の旗を立てて決起
することは容易なことではなく、
かえって長州藩に害を及ぼす
だけです」
と松陰を戒めるものだったのだ。
松陰は怒り狂うのだ。
そして、安政6年正月11日、
手紙を書くのだ。
宛名はないのだが、おそらく
彼らに対して
「私のこの手紙を皆で回覧せよ」
ということではなかったか
と思うのだ。
その中にこういう一文が
あるのだ。
「私はただ誰よりも早く
国のために死んでみせよう
と思っているだけです。
誰よりも早く私が死んで
みせれば、心を動かして
立ち上がってくれる人も
現れるでしょう。
しかし、私がそうして
みせなければ、どれだけ
待ったところで心ある
人々が決起する時など、
多分永遠に来ません。
そもそも武士にとって
忠義というのはどういう
ものでしょうか。
それは怖い人が出かけた隙に、
『やれやれ、それでは
ちょっとお茶にしましょうか』
というような感じで行うもの
ではないはずです。
私と彼ら」、
彼らというのは自重を
求める門人たちだが、
「の違うところはただ1つ。
それは、私はひたすら忠義の
ために行動しようとしている
のに、彼らは
『その行動を起こすことに
よって、どのような成果を
上げられるのか』などと、
そんなことばかり考えて、
結局何も行動しないところです」
以上だが、最後の部分の原文は
「僕は忠義をするつもり、
諸友は功業をなすつもり」
なのだ。
いかにも松陰らしい言葉なのだ。
つまり、松陰は成果が
上がりそうなら行動するが、
上がりそうになければ
行動しないという門人たち
の発想や態度そのものが
気に入らなかったわけなのだ。
松陰からすれば最悪の状況下
でも、というよりもむしろ
最悪の状況下であればあるほど、
いやしくも武士である
ならば忠義の旗を押し立てて、
その結果どうなるなどと
いうことは考えず、
毅然と立ち上がらなくては
ならないのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる